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温故知新 大大阪時代を歩く 第1回 ダイビル本館

ダイビル本館。エントランスの2階吹抜。

1920年代、大阪が日本の経済・文化の中心として栄華を極めた時代があった。この頃、大阪市は東京市(現・東京23区)をしのぐ発展を遂げ、アジア最大の工業都市として「東洋のマンチェスター」とすら呼ばれるに至った。そして、この時代「大大阪」という名称が生まれる。この特集では当時を振り返り、現代に受け継がれる大阪の創造性や活力に迫る。第一回は、大大阪時代の建築の象徴、旧ダイビル本館(完成当初の名称は大阪ビルヂング)を復元したダイビル本館を訪ねた。

堂島川対岸北西より臨むダイビル本館。左は中之島ダイビル、右は関西電力本社ビル。

 レンガの壁にギリシャ風の彫刻を施したクラシックな造り。中央玄関の上には、帝展審査員を務めた大国貞蔵作の「鷲と少女の像」が飾られている。ビルの前を歩くと、まるで歴史あるヨーロッパの町にいるような気分にさせられる。が、目線を上げれば、その重厚なビルの上にガラス張りの近未来的なビルがそびえ立つ。その現代アートのようなコントラストが面白い。
 2013年に完成した地上22階のダイビル本館は、6階までの下層階にレトロな佇まいのビルが復元されている。このビルこそ、大大阪時代のシンボル、旧ダイビル本館だ。この建物が完成したのは1925年のこと。大阪の経済・文化が活気にあふれ、「大大阪」と呼ばれていた時代である。この頃、大阪は「天下の台所」として築いて来た豊かな経済基盤のもと、地下鉄御堂筋線の建設、大阪城天守閣の再建、御堂筋の大規模な拡幅を進め、近代的な町へと発展。多くの若者は、上京ならぬ“上阪”を夢見たという。
 1923年に発生した関東大震災も大きな後押しとなった。被災者の一部が大阪市に転居したことで人口は日本最多の211万人に膨れ上がり、東京市の混乱により、臨時首都の役割も担うことになったのである。

異彩を放った、西日本最大のオフィスビル

地上22階のダイビル本館。下層階は大正時代に建設されたダイビルを復元し、その上にガラスカーテンウォールを採用した高層部を組み合わせた。

 そんな時代を背景に誕生した旧ダイビル本館は、大阪商船(現・商船三井)と関西電力の前身である宇治川電気、日本電力の三社共同出資で設立した大阪ビルヂング(現・ダイビル株式会社)によって建てられた。当時、このビルは西日本で最大級の規模を誇り、大きな話題を呼んだ。「この頃は東京・丸の内ビルディングのように近代式のオフィスビルが主流でしたが、設計監督の渡邊節は、伝統のネオロマネスク様式を取り入れ、各所に彫塑像を施すことを提案し、実現しました。当時は、重厚な装飾も話題になったようです」と広報室の鈴木祐大さん。
 古代エジプト時代から中世ルネサンス期までに「幾多の天才技術者に依り洗練された建築のスタイルと云うものが、一朝一夕にして破壊せられるものではないと思ふ」と1927年に語った渡邊は、伝統的な建築様式を非常に高く評価しており、その設計思想が稀代の傑作を生み出した。
 その美しさは豪華客船にもたとえられ、小説家の北尾鐐之助は「目下のところ、大阪における大建築の最高のもの」と絶賛。1925年9月18日、同ビルの落成を伝える大阪朝日新聞の記事には「異彩を放つ彫像」の見出しが躍った。

北西角より見上げるダイビル本館。

多くの“日本初”を生み、発展に貢献

 建築様式に見られる進取の気性は、大阪初の耐震構造ビルであること、大阪ビルヂングが貸しビル業の先駆者であったことにも現れている。また、施工においては、原材料を施主が調達し、施工者には手間賃だけを支払うという、合理的で経済的な米国方式を採用し、これによって建築費の大幅削減に成功したが、これは商都大阪らしい発想だ。さらに可能な限り国産材を使い、それまで輸入していたテラコッタの製造を国内業者に委託し、産業の底上げにも貢献した。
 初の試みを多く取り入れ、時代の先を走った旧ダイビル本館には、大阪の大企業や銀行のほか、イギリスやドイツなどの領事館も置かれ、開館当初から国際色豊かなビルとして高く評価された。最上階に社交クラブ「大ビル倶楽部」を設立したのも、同館の面白いところ。当時は、関西のみならず日本の財界の要人らもここに集い、政治経済の問題について議論したという。旧ダイビル本館はオフィスビルに留まらず、政財界に社交の場も提供していたのである。

(右)天井を彩るレリーフは、旧ビルの現物から型を取ってつくり直した。
(左)旧ダイビル本館時代から使われている金属製の郵便受け。今も集荷が行われている現役だ。

白黒写真と現物から、竣工当時の姿を復元

建物は元あった位置より後ろ寄りに建設。空いたスペースには飲食店のテラス席が設けられ、ヨーロッパの雰囲気漂う通りに変身した。

広報室の鈴木さん(左)と林さん(右)

 建築業界に新たな風を吹き込んだ旧ダイビル本館。その建物を復元した理由を、建て替えに携わった広報室の林幸司さんは「当社の創業の地であるこのビルには強い思い入れがありましたし、中之島の歴史を建物を通して次世代に伝えたいという思いもありました」と話す。
 復元にあたっては、「可能な限り建築資材を再利用する」という方針を貫いた。外壁のレンガは現代の建築基準に合うかどうか調査した上で、一つずつ取り外して洗浄し再利用したレンガの数は約15万個。気の遠くなるような作業だった。さらに足りないレンガは、何度も焼き直して当時の風合いに近づけた。石柱も部分的に作り直し、エイジング加工を施したが、違和感のないよう再現するのに苦労したという。もちろん、本館のシンボル「鷲と少女の像」も再利用した。
 内装も竣工時の姿に戻すために、手すりや金属製の郵便受けはそのまま使い、天井は現物を型取りして再現。その他の部分は、白黒写真と現物などわずかな資料を頼りに復元していったという。まるで遺跡を修復するようなプロセスだ。「これほど大規模なビルの復元は大阪初かもしれません」と鈴木さん。その成功を導いた高い復元技術と粘り強さに、大阪の底力を感じる。
 生まれ変わった旧ダイビル本館は今、「生きた建築」として多くの建築ファンを魅了している。また地元企業と協働で、音楽や建築アートを楽しむイベントを開催。芸術文化を活気づける役割を担っている。今も昔も時代の先を走るダイビルは、オフィスビルの枠を超え、大阪が持つ力を再確認させてくれる存在なのだ。

この店、この一品。
[ 第1回 ] 旧ヤム邸 中之島洋館  「混ぜカレー」

旬を味わう、一期一会のスパイスカレー。

 近年、大阪でスパイスカレーのブームが起こった。その火付け役だった『旧ヤム邸』が新たなステージに選んだのが、ダイビル本館だ。「憧れのダイビルに店を構えるのなら、今以上のことをしたいと思いました。めざしたのは、
カレーの枠にとらわれないカレーです」と加藤理店長は当初の意気込みを語る。

 その熱い思いを形にしたのが「選べる混ぜカレー」だ。

 これは、日替わりのキーマと野菜カレー、サラッとした“定番カレー”の3種を混ぜて味わうメニューだ。日替わりカレーは旬の野菜や魚が中心。「素材の美味しさを引き立てるためにスパイスをどう使うか、シミュレーションして厨房に入ります。レシピはないためぶっつけ本番、二度と同じカレーはつくれません(笑)」と加藤さん。それらをより美味しくするために、和風出汁が隠し味のカレーやタイ風カレーなどの定番カレーを加えるのが旧ヤム邸の流儀だ。

 二度とこの味を楽しむことはできない、と思うと一匙の重みを感じるが、その口当たりはサラッと軽く食が進む。一皿ずつ仕上げているとあって、フワーッと口いっぱいに広がるスパイスの香りはフレッシュで、素材の歯ごたえや旨味も存分に感じられる。混ぜ具合によって、一口ごとに味が微妙に異なるのも面白い。そして、食後に訪れる美味しい余韻、「明日はどんなカレーが登場するのだろう」というワクワク感。こんなカレーを味わえば、午後の仕事も頑張れそうだ。

旧ヤム邸 中之島洋館
大阪市北区中之島 3-6-32
ダイビル本館 2F
06-6136-6600
11:15~LO14:00、18:00~LO21:00(売り切れ次第閉店)
土曜: LO 20:30 定休日: 日曜日・祝日

「大大阪」を英語で表記すれば、「GREAT OSAKA」あるいは「GREATER OSAKA」となる。「偉大なる大阪」という風にもとれるが、そもそもは面積を拡張した大阪市、すなわち「大阪市街地、およびその郊外」といった意味になるだろうか。

 大正14年(1925)、大阪市は接続する東成郡・西成郡に属する44の町村(鶴橋町、生野村、天王寺村、住吉村、今宮町、中津町、豊里村、伝法町など)を合併、第2次の市域拡張を実施した。南は大和川、北は新淀川を越えて兵庫県境までを編入したことで、大阪市の人口は139万人から203万人に膨れあがる。東京市を凌駕、ニューヨーク・ロンドン・パリ・シカゴに次ぎ、ベルリンなどと世界第5位の位置を争う規模となる。

 4月1日、新たな大阪市が発足する。東西南北4区であった行政区域を8区に分区、さらに市域に編入された町村を5区に再編、合計13区からなる東洋一のメトロポリス「大大阪」が誕生した。

 『大阪毎日新聞』の記事には「輝かしい『大大阪』は愈々きょうから実現」という見出しが踊る。大大阪の建設に尽力した關一大阪市長は「…思って見ると全く夢のような話だ。大阪市民は自彊自治の民で、これまでに出来た市の大事業は皆いずれも根強い市民の力に成ったものばかりである。今回の町村編入も全く市民の持つ金の力とその溢れ切った愛市観念の結晶に外ならない…」と述べている。「大大阪」の発足に際しては、多くの市民が誇らしげに思い、期待を抱いたようだ。

 もっとも当時、大阪はさまざまな都市問題に直面していた。『週刊朝日』は「生れ出でんとする大大阪」と題する小特集を組み、面積の広さや人口の過多が、都市の「誇り」とする根拠ではないと苦言を呈する。世界5位の大都市というと勇壮だが、都市計画による街路網や下水の整備、築港の完成、学制の統一、中央卸売市場の新設、電燈事業の経営など、いまだなすべき多くの事業が残っている。特に酷く混雑していた交通の緩和を促すべく「市内高速交通機関」、すなわち地下鉄などの高速鉄道の整備が「急務中の急務」だと述べる。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

 この状況に対して、大阪市は順次、対処していった。先の『大阪毎日新聞』の記事で關市長は、「『生産の都』としての大大阪を築きたい大大阪市を築き上げようというのが私どもの方針であり理想でもある」と抱負を語っている。その後、昭和初期にかけて御堂筋を拡幅、地下鉄を建設すると同時に、中之島には水都の名にふさわしい美しい公園を整備した。大阪城には歴史博物館を兼ねた展望施設である復興天守閣を建設、社会施設や教育機関も拡充、市場などの都市基盤も整えてゆく。都心の水際は「東洋のベニス」、北浜界隈は「東洋のウオール街」、煙突が林立する工場地帯は「東洋のマンチェスター」に例えられた。

 また周辺の町村を編入したことも、都市問題の解決に不可欠であった。耕地整理や区画整理を実施、幹線道路や上下水道を建設する。農地や未利用地を新たな工場の用地や住宅地として確保したわけだ。

 90年が経過した今日、私たちが「大大阪時代」に想いをはせる際、決して懐古的になってはいけないと私は主張したい。当初、「大大阪」とは、すでにあった都市を評価する概念ではなかった。これから創出されるであろう、世界に誇るべき新しい大阪の姿、理想的な未来の都市の姿を、市民が期待をもって「大大阪」と呼んだわけだ。世界に冠たる活力ある「大大阪」都市を建設しようとした、未来志向の先人たちの想いと、大阪に対する愛市精神にこそ、学ぶべきである。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

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