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温故知新 大大阪時代を歩く 第2回 御堂筋

御堂筋・大丸前横断歩道

旧堂島ビルヂング付近(昭和14~15年頃)※画像提供: 橋爪伸也コレクション

大大阪時代真っ只中の1937年(昭和12年)、御堂筋の拡幅工事が完了した。梅田と難波を結び、大阪市内を南北に貫通する大幹線道路は、やがて「東洋のシャンゼリゼ」と呼ばれるようになった。今年、開通80周年を迎えて尚、美しさと活気を保ち続ける御堂筋。その歴史を振り返る。

旧堂島ビルヂング付近(昭和14~15年頃)※画像提供: 橋爪伸也コレクション

都市計画事業のひとつに掲げられた御堂筋計画

第7代大阪市長・関一

大阪市を南北に貫く、御堂筋。その規模は、全長約4㎞、幅員44mに及び、地下には市民の足となる地下鉄が走る。沿道には大阪市庁舎をはじめ、企業や金融機関、ブランドショップ、百貨店など、経済・文化・行政といった都市機能が集まっていることから、しばしば「大阪市の大動脈」と称される。一方で、4列のイチョウ並木がつくりだす美しい景観は、喧騒の中にあって人々の心を和ませてくれる。都心にいながらにして、季節の移ろいを感じられるのも、この道路の大きな魅力といえる。
 御堂筋は今でこそ、大阪市の大メインストリートであり、文学に登場し歌謡曲にも歌われる大阪のシンボルだが、もともとは、北の淡路町から南長堀までの全長1.3km幅員6mほどの狭く短い裏道だった。
 その延長と拡幅の計画が持ち上がったのは1921年(大正10)のこと。当時の大阪市は人口増加に伴うさまざまな都市問題を解決するために、道路や鉄道、下水など、公共施設の整備を行う「第一次都市計画事業」を進めようとしていた。そのひとつが、御堂筋計画だった。
 その計画をさらに発展させ、強力に推進したのが、第六代大阪市長池上四郎氏の助役として来阪した、関一氏である。その後、第七代大阪市長に就任すると、100年先の大阪を見据え、池上市長の政策をさらに発展させた「都市大改造計画」を打ち出し、メイン事業に「御堂筋新設拡幅工事」を掲げたのである。その内容は、やがて車社会が訪れることを予測し、旧国鉄大阪駅前から南海電鉄難波駅前まで貫通する道路を幅43.6mに拡幅し、中央部の地下に高速鉄道を建設するというものだった。大阪市都市計画局開発調整部デザイン施策担当の香川課長は、「裏通りを巨大な道路にするという関市長の構想に、市民は『飛行場でも造る気か』と度肝を抜かれたと言われています」と話す。

拡副中の御堂筋・本町付近(昭和3年)

拡張後の御堂筋・淡路町以南(昭和3年)

御堂筋の立体レリーフ・心斎橋~難波付近

完成した御堂筋とビル群(昭和12年頃)

現在の御堂筋 淀屋橋・中之島付近

市民の猛反発、資金難……問題山積みの工事計画

雪の日の地下鉄工事現場(昭和7年頃)

 市民の想像をはるかに超えた計画は、着工に至るまで苦難の一途を辿ることになる。まず、用地買収交渉でいきなり暗礁に乗り上げた。この頃、計画路線の大阪駅から淀屋橋南詰までは既に市電道路が開通していたが、淀屋橋以南は、先祖伝来の土地とのれんを守り続けている船場、淀屋橋などの商家や大邸宅が密集する地域で、道幅は6mほど。その狭い道を約8倍に拡幅するのである。立ち退き交渉がスムーズに進むはずもなく、市民から猛反発を食らった。大阪市建設局道路部道路課の梶谷課長代理は「当時の担当者は、御堂筋の拡幅が大阪の発展のためにどれだけ貢献するかを解き続けて理解を求め、同意を得るまで何度も頭を下げてまわったようです」と話す。
 もうひとつの問題は、工事費用の捻出だ。この計画は前例のない大事業だったため、工事にかかる費用は莫大で、立ち退き料もかなりの額にのぼった。さらに、道路新設拡幅工事と並行して、地下鉄建設工事も進められることになっていた。第一次世界大戦を転機に都市部が業務区域、周辺部は住宅区域に分けられ、両区域をつなぐためには路面交通機関だけでは不十分だったため、鉄道建設は急務だったのである。
 これらの工事費用は当初、国からの援助を受けることになっていた。しかし、関東大震災の復旧費の支出が増えたため、この都市計画事業への国庫補助が打ち切られてしまった。また、政府の非募債政策によって財源の要だった公債募集にも手間取り、資金計画は見直しを余儀なくされた。その結果、着工は大幅に遅れてしまう。
 厳しい資金計画を打開するために関市長が踏み切ったのは、「受益者負担金制度」の適用だ。これは、御堂筋の新設によって土地の利便性が高まって評価が上がることを見越し、その上昇分を土地所有者である受益者が負担し、施工者が負担金を徴収して工事費に充てる制度のことで、全体の工費の3分の1が受益者負担金でまかなわれることになった。地下鉄建設資金も、駅を中心とする半径500mを受益者負担金圏内とした。御堂筋に面していない市民からは「御堂筋から遠く離れた私らが、なぜお金を払わねばならないのか」という不満の声があがり、徴収額は予定より下回った。

事故が多発し困難を極めた水の都の地下鉄工事

大阪市都市計画局の香川課長(中央)
建設局の山向課長(左)・梶谷課長代理(右)

 立ち退き交渉の遅れ、財政事情の悪化によって遅々として進まなかった御堂筋計画は、1926年(大正15)10月、ようやく着工に至る。一方、地下鉄工事は1930年(昭和5)1月に着工したが、その工事は難航を極めた。
 「堂島川、土佐堀川、長堀川、道頓堀川の4本の川の下にトンネルを通さなければならなかったので、当時は川の水をせき止めて川底を掘り、その後、トンネルの天井を閉じて水を流す、という方法で工事をしていたようです」と香川さん。土佐堀川での工事では、川をせき止める締切りが決壊して道路の一部が冠水、市役所前の市電が不通になるという事故も起こった。また、大阪の地盤は軟弱で、地下にトンネルを掘る作業では何度か漏水騒ぎが起こった。さらには、「長い鋼矢板を打ち込む際、ツチ音がガンガン響いて『家が傾いた』『震動で電球が切れた』といった苦情が市役所に持ち込まれたといわれています」と大阪市建設局総務部の山向企画課長は言う。工事中には、騒音や震動に対して周辺住民の決起集会も開かれるなど、一筋縄ではいかない難事業となった。

大阪市都市計画局の香川課長(中央)
建設局の山向課長(左)・梶谷課長代理(右)

地下鉄駅構内の豪華さに見物客が殺到

地下鉄心斎橋駅のエスカレーター(昭和8年頃)

 工事は市民の反対と数々の問題に直面したが、1933年(昭和8年)5月20日、道路よりいち早く梅田―心斎橋間に地下鉄が開通すると、地下駅構内の壮麗さと120人乗りの全鋼製車両を一目見ようと、多数の市民がどっと押し寄せた。初試乗した鳩山文相も、欧米の技術の粋を集めたその豪華さに目を丸くして「これは、立派」と感嘆したという。「車両一両に対してプラットホームが長すぎる」「停留場が広すぎる」と非難めいた声もあったが、現在の混雑ぶりを見れば、当時、このような見通しを立てて建設したことに感服せずにはいられない。
 一方、道路が完成したのは、1926年(大正15)10月の着工から11年後の1937年(昭和12)5月11日。幅44mの中央部を高速車道、その両側を緩速車道、さらに両端を歩道とした。完成時には、御堂筋のシンボルとなるイチョウが、淀屋橋南詰から難波までの4列の区分線に約800本植えられた。また、梅田から淀屋橋北詰まではプラタナスが植えられ、緑豊かな道路に仕上がった。
 そもそも、車社会を見越しての大事業だったが、開通当初、車はほとんど走っておらず、だだっ広い道路は閑散としていた。また、電線は地中に埋められ、イチョウ並木が延々と続き、都心とは思えないほどのどかな風景が広がっていた。しかしこの道路こそ、大大阪時代の原動力になるのである。

沿道は問屋街として発展し大阪経済の中心に

カルチェ付近の歩道

心斎橋に初進出した頃のシャネルとディオール

 市民から反対された御堂筋が開通すると、関市長の予測通り、大きな経済効果を生みだした。沿道は問屋街として繁栄し、全国的に知られる道修町の薬種商、御堂界隈の人形問屋、船場の繊維問屋などが軒を連ねた。大企業や金融機関もこぞって沿道にビルを建てはじめ、百貨店も御堂筋を賑わせた。戦争中は大空襲で大阪の町全体が大きな被害を受けたが、御堂筋は道路、地下鉄、街路樹ともに無事に残り、復興をめざす市民の心の支えとなった。
 やがて高度経済成長期が訪れると、大阪の町と御堂筋は再び活気と賑わいを取り戻していく。1958年(昭和33)には建設大臣の直轄管理となり国道指定を受け、1965年(昭和40年)頃には空前のマイカーブームが到来。広大な道幅を誇る御堂筋にも混雑が目立ち始め、1970年(昭和45)には大阪万博の開催にあわせて南向き一方通行となる。
 約80年前、来たるべき車社会を予測し、市民の猛反対を受けながらも計画を遂行した関市長。その優れた先見の明は、若き日々の西欧留学の賜物と思われるが、この突拍子のない一大事業を完遂できたのは、昔から進取の気性をしなやかに受け入れてきた大阪の地であったからこそと言えまいか。また、事業費の大半が国費ではなく、市民の手でまかなわれたという事実は、江戸時代から町人が自腹で橋を架けきた自治自立の伝統が生きる大阪の面目躍如たるものと言うべきであろう。

御堂筋をブラッシュアップし世界にその魅力を再発信

御堂筋・難波付近

御堂筋イルミネーション

 経済を活性化させ、市民の生活に潤いをもたらした御堂筋は、いつしか「東洋のシャンゼリゼ」と呼ばれるようになった。しかし御堂筋は今、本家のシャンゼリゼを超える魅力ある道路になりつつある。
 御堂筋の活性化に努める、NPO法人御堂筋・長堀21世紀の会理事長、成松孝さんは「シャネル・ジャパンのリシャール・コラス社長が言うには、4kmにも渡ってイチョウ並木四列が続く御堂筋の道路風格は世界トップクラス。また、戦災を免れたイチョウの木を見て、大阪市民がイチョウを守ってきたことに感動したと言っていました」と話す。
 1996年(平成8)、御堂筋に魅力を感じたシャネルが長堀通角に出店すると、フランスの経済誌「ル・モキ」は「西日本の注目エリア」として御堂筋特集を組んだ。その結果、スーパーブランドが相次いで御堂筋沿道へ出店し、界隈はファッショナブルな街へと変貌した。
 御堂筋は、このスーパーブランドが集まるエリアと、淀屋橋から本町までの大阪を代表するビジネス街、アジアのるつぼさながらの猥雑性を含む難波界隈、とエリアによって異なる個性を持っている。成松さんは、「それこそシャンゼリゼにはない御堂筋の魅力であり、それぞれの特徴をブラッシュアップすることで、大阪経済の中核的存在にまで引き上げられる」と考えている。
 「大阪には、御堂筋という素晴らしい遺産があります。これを現代に合うよう更新して使いこなすことで、大阪の将来はもっと輝くと考えています」。著名人「御堂筋サポーターズクラブ」による御堂筋の活性化への協力を呼び掛ける。
 「歩行者空間優先御堂筋特区」を実現させ、ベンチやカフェ、トイレ、観光客のための案内所を設置する。また、交差点は記念撮影スポットになるような「80周年記念モニュメント」をつくる……。同会は、さまざまな計画を大阪市に提案している。
 80周年を機に、さらに魅力的な道路に変わろうとしている御堂筋。大大阪時代、100年先の大阪のために築かれた御堂筋が、大阪を再び活気づける。

御堂筋・長堀21世紀の会
成松理事長

「御堂筋完成80周年記念事業」を実施

大阪市は今年、御堂筋が築き上げてきた歴史的意義を再認識するとともに、市民と共に御堂筋の将来を考え、市民と共に記念の年を祝すことを目的に「御堂筋完成80周年事業」を実施する。御堂筋が完成した5月11日に第1回シンポジウムや、ワークショップ、民間との対話や議論を通して、将来のビジョンの策定の策定、また御堂筋を華やかに演出する取組みを行うなど、さまざまな事業を展開。今年を公民連携による新しい御堂筋づくりをスタートさせるキックオフイヤーとする。

取材協力: 大阪市都市計画局・建設局 NPO法人御堂筋・長堀21世紀の会
図版提供: 大阪歴史博物館 橋爪伸也コレクション
出典: 大阪市ホームページ、「大阪のまちづくり 平成3年3月 大阪市」他

この店、この一品。
[ 第2回 ]ガスビル食堂  「ムーサカ」

今も変わらない味「ムーサカ」

大大阪時代に生まれた、「モダンシティー」の味。

1933年(昭和8)、御堂筋のほぼ中央に「大阪ガスビルディング」(通称ガスビル)が誕生した。巨大な客船を思わせる白亜のビルは、当時としては珍しい全館冷暖房完備でエレベーター付き。当時の大阪で最も近代的で美しいビルと称された。

男性はスーツで、女性はおめかししてモダンを楽しんだ

「当初、大阪ガスのオフィスとして使われていたのは2フロアのみで、オフィスビルというよりは、西洋文化の発信拠点という位置付けでした。館内では最新のガス器具を展示し、ガス器具を使う料理講習も開催されました。2階から4階の最新設備を誇るお洒落なホールでは、モボやモガと呼ばれた人々が芝居や映画を楽しんだんですよ」とマネジャーの木下芳信さん。ガスビルは、いわばアミューズメント施設。近代都市生活と文化を併せて楽しめた「モダンシティー大阪」のシンボルと呼べるビルだった。

ビル竣工と同時に最上階8階にオープンした『ガスビル食堂』も、最新のガス調理器具で本格欧風料理を提供し、近代的な食文化を発信する役割を担った。調理は、東京から招聘した帝国ホテルの料理長とコックたち12人が担当。フランス料理を中心に、イギリス、イタリア、ギリシャ、スペイン、北欧などの本格的な西洋料理にこだわりながら、「大大阪」の気概を示すように、自由で形式にとらわれない独自の欧風料理を提供している。

創業当時(1933年)のメニュー

ガスビル食堂マネジャーの木下さん(右)と支配人の若林さん(左)

当時の料理は、今も「伝統メニュー」として代々のシェフに受け継がれており、昔と変わらない味わいが楽しめる。そのひとつ「ムーサカ」は、ギリシャの家庭料理に由来する料理。三代目料理長が日本人の口に合うよう羊肉を牛肉に代え、創業当初から受け継がれているデミグラスソースとマッシュポテトでアレンジした。

洒落た欧風料理を楽しみに訪れたのは、もっぱら界隈の船場や道修町の商家の人々だった。館内の理容室や美容室でおめかしをし、ガスビル食堂で食事を楽しむのは当時のステイタスであり、家族の思い出となった。支配人の若林勝之さんは「当時のお子さんが成長して、ご家族と一緒に来てくださる方もいらっしゃいます。子どもの頃に食べた味を懐かしむ方は多いですね」と話す。親子代々の常連客に加えて、今は周辺で働く人々も多く利用する。

かつて食文化を発信したガスビル食堂。今は、家族の思い出に浸ると同時に新たな思い出を綴る場所であり、また新しく訪れる人々にとっても、あの時代の残り香をそこかしこに感じつつ、受け継がれてきた「モダンシティー」の味に舌鼓を打てる数少ない店の一つとなっている。

ガスビル食堂
大阪市中央区平野町4-1-2 ガスビル南館
電話番号: 06-6231-0901
11:15~LO14:00、18:00~LO21:00(売り切れ次第閉店)
営業時間: 11:30~LO20:30 定休日: 土曜日・日曜日・祝日

1933年のガスビル外観

御堂筋は今年で竣工から80年の節目を迎える。
大正時代になり、日本最大の商工業都市となった「大大阪」では「市区改正」、すなわち都市計画による市街地の近代化が課題となる。とりわけモータリゼーションが予見されるなか、道路網の再編は急務であった。

 大正10年、第一次都市計画事業の策定において、40路線の道路整備と81の橋梁掛け替えなどが認可される。そこに都心を貫通、24間(43.6m)幅の新道が「廣路」の名で位置づけられた。のちに御堂筋の愛称で親しまれるメインストリートの整備計画がここに位置づけられた。

 当時、大大阪を支えた幹線道路は、金融街の北浜を貫く堺筋、および明治時代のビジネスセンターである出入橋から湊町・難波の鉄道駅に至る南北線(四つ橋筋)であった。この二筋の混雑を解消するべく、双方の中間を抜く最大幅員の新道が計画された。

 梅田駅前を起点に難波駅前まで、全長4キロほどの路線である。大正15年に着工、まず大江橋北詰までの区間が完成し、昭和2年4月に「梅田新道」として供用された。

 ついで南への延伸が始まる。3〜4間幅しかない既存の道を拡幅するわけだが、まず用地買収が難航した。そこで市長の関一は、新道ができると利益を得るであろう沿道の地権者に「受益者負担金」と称する分担金を、全国で初めて課すこととし事業費に充てた。また御堂筋の建設は、恐慌によって生じた失業者の救済事業という意味もあった。

 昭和6年の春に久宝寺まで、昭和12年に難波までの全線が供用される。10年5ヶ月もの工期と三千三百万円の工費をかけて、欧米の大都市にも負けない堂々たるメインストリートがここに誕生した。

 御堂筋は、市電軌道、自動車用の高速車道、植樹帯、牛馬車・荷車・自転車用の緩速車道、歩道に区分された。交通の円滑化をはかるべく、系統信号も採用された。御津と順慶町には、歩行者の安全を確保するべく地下道が建設された。

 「都市美」を創出することも、重要な命題であった。架線や電柱を設けず、最新の街灯を配置、大江橋や淀屋橋などの橋梁は公募によって優れたデザインが採択された。また沿道を美観地区に指定、統一された近代的な景観への誘導が企図された。さらに「都市の緑化」を目標に掲げて、大江橋以北はプラタナス、以南はアジア原産の銀杏を街路樹とし、「公園道路」という性格も付与された。

 市電やバスの慢性的な混雑を解決する高速鉄道として、地下鉄も建設された。昭和5年1月に起工。河底の掘削など難工事が続いたが、昭和8年5月、梅田から心斎橋仮駅までの区間がまず開業。順次、延伸された。10輌での運転を想定したホーム、エスカレーターの設置、各駅の壁色を変えるカラーサインなど、最新の発想が具体化する。実現はしなかったが、梅田駅や難波駅では地下商店街の計画もあった。

 新しい道に面して、堂島ビルヂング、美津濃運動具店、安田銀行、日本生命、大阪ガス、伊藤萬商店、伊藤喜商店など、続々と近代的なビルディングが竣工する。また阪急、そごう、大丸、高島屋などのデパートも、店舗のビルディング化を進めた。

 昭和11年7月、『大阪時事新報』は「坪六百円で買ったものが僅か半年余りで五千六百円に売れた」という事例を紹介、沿道の地価の高騰を報じている。記者は、懸念された受益者負担金も「恐らく問題ではあるまい」と書いている。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

 戦後、銀行やオフィスビルが集積する御堂筋は、大阪のビジネスセンターとなり、都市の復興と高度経済成長を牽引した。また軒高のそろったビルディング街が、当初の理想とされた美観を実現した。

 しかし近年、梅田や中之島にビジネスセンターが移り、御堂筋沿道の活力は相対的に低下した。耐震性に課題のあるビルも多く、建て替えの促進が課題になる。そこで大阪市は平成26年1月に「御堂筋デザインガイドライン」を策定、低層に品格のある賑わい機能を誘導しつつ、レジデンスなどの建設と高さ規制を緩和した。また緩速車線の歩行者空間化を促す「御堂筋の道路空間再編」も着手された。

 いっぽうで「御堂筋イルミネーション」の継続実施、F1の走行などで話題となった「御堂筋オープンフェスタ」等のイベント実施、沿道のタウンマネジメント団体のネットワーク構築など、御堂筋の魅力向上に関わる事業も重視されている。

 御堂筋界隈は、かつての業務中心地区から、オフィスとホテル、さらには商業機能が混在する複合用途の「生活文化都心」へと転換をはかりつつある。私は御堂筋が貫く中央区で生まれ育った専門家として、ここに述べた一連のハード、およびソフト事業の計画立案と実践にあって、キーパーソンとして尽力をしてきた。「交通問題への対応」「都市美の創出」「都市緑化の進展」など、「大大阪の時代」に先人たちが示した御堂筋の初期設定を継承しつつ、次世代の水準に発展させて、沿道のリノーベンションに取り組むことが、私たちの世代に課せられた責務である。

※画像提供: 橋爪伸也コレクション

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

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