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温故知新 大大阪時代を歩く 第4回 生活文化プロデューサー小林一三が築いた大阪急文化圏・梅田、そしてキタの未来。

梅田阪急ピル第1期竣工(1929年)

梅田駅コンコース(1929年)

現在の阪急百貨店うめだ本店

昼となく夜となく、多くの人々で賑わう大阪・キタの複合ターミナル梅田は、西日本随一の繁華街である。明治時代、大阪の町外れにすぎなかった梅田の繁栄は、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)ターミナル・梅田駅の開業と、大大阪時代に梅田駅上に開業した世界初のターミナルデバート『阪急百貨店」によるところが大きい。今もなお、大大阪時代の栄華を受け継ぐ、大阪・梅田。その歴史を振り返る。

梅田駅コンコース(1929年)

現在の阪急百貨店うめだ本店

町外れの私鉄ターミナルが梅田発展のきっかけに

運転を開始した木造ボギー車【1型】

開業当日の箕面有熙電気軌道梅田駅(1910年)

 大阪市北区の阪急梅田駅を中心に広がる梅田は、阪神、地下鉄、JR各線の駅が立地しており、大阪市の交通の一大要衝となっている。百貨店やホテル、オフィスビル、ファッションビルも林立し、主要道路の地下を網目のように交錯する地下街は人の流れが途切れることはない。劇場や映画館のほか、大学・大学院のキャンパスといった教育・文化施設も充実しており、ビジネスパーソンから買い物客、学生までさまざまな目的を持つ人々が集う。
今でこそ大阪を代表する複合商業ゾーンとして知られているが、江戸時代以前は手つかずの低湿地帯だった。そこを泥士で埋め立てて田畑にしたことから「埋田」と呼ばれ、いつからか「梅田」と表記されるようになった。その梅田が発展を遂げたのは、阪急電鉄の梅田ターミナル駅開業と、大大阪時代の波に乗ってオープンした世界初のターミナルデパート『阪急百貨店』の存在が大きく影響している。

計画中止となった支線に打望性を見出す

【最も有望なる電車】
箕面有馬電気軌道株式会社発行
(1908年)

公益財団法人阪急文化財団学芸課長 仙海義之氏

阪鶴鉄道の重役たち(前列左橋 小林一三)

 阪急電鉄誕生のきっかけは20世紀初頭に遡る。当時、経済の中心地だった大阪に人や物を運ぶ交通機関として、いくつかの私鉄路線の開設が計画されていた。この頃、舞鶴港から大阪へ物資を運ぶ阪鶴鉄道はすでに運行しており、その補助路線として、川西池田-梅田間に電気鉄道敷設の計画も着々と進められていた。しかし、1906年(明治39) の鉄道国有法によって阪鶴鉄道の国有化が決まると、その計画は中止となる。
阪鶴鉄道は主要路線を失ったが、重役らは好景気に乗って、池田ー宝塚ー有馬間の延伸と箕面支線運行を計画し、箕面有馬電気鉄道株式会社の創立の発起人会を設立。しかし、直後の不況の煽りを受けて十分な資金を集めることができず、会社設立は困難な状況に陥ってしまう。
公益財団法人阪急文化財団の学芸課長、仙海義之さんは言う。「後に阪急電鉄を創業す小林一三は阪鶴鉄道の監査役でした。国有化に伴い同社を退社しますが、中止となった新たな電車事業に可能性を感じたのでしょう。

阪神間開通を告げる新聞広告(1920年)

箕面有馬電気軌道会社設立の追加発起人になって、創立に奔走します」。そして1908年(明治41)、大阪市との交渉の末、起点となる梅田駅が官営鉄道大阪駅のそばに造られることとなった。 当時、梅田には大阪駅北側に貨物駅があり、阪神電車梅田駅も開業していたが、大阪駅は官営鉄道東海道線の終着駅、神戸駅へ向かう通過点に過ぎなかった。しかも、梅田は大阪市域に含まれない西成郡曽根崎村に属しており、周辺にはわずかな民家と田畑が広がるうら寂しい場所だった。それでも、小林一三が梅田にターミナル駅を建設したのは、これからの町は駅を中心に発展すると予見し、このエリアに将来性を見出していたからにほかならない。そして自身が予見した未来をめざすかのように、小林の快進撃が始まるのである。

【最も有望なる電車】
箕面有馬電気軌道株式会社発行
(1908年)

沿線の土地を宅地開発し、庶民に新しい暮らしを提案

一三発案による「電車回遊雙六」

武庫之荘住宅地売出ポスター

 1910年(明治43)3月10日、箕面有馬電気軌道は、梅田ー宝塚間、石橋ー箕面間の運行を開始した。とはいいうものの、電車が走るのは人口の少ない田圃地帯で、終着駅の宝塚に呼び物になるものは何もない。
一方、箕面には大滝があるとはいえ、それほどしょっちゅう行くものでもない。しかも、温泉地・有馬への敷設計画はまだ先の話。乗客の獲得は一番の課題だった。しかし、そうした問題を独自のアイデアで解決するのが、小林一三だ。「『ご乗客は電車が創造する』と、ご乗客を増やす3つの作戦を計画したのです」と仙海さんは言う。
第一の作戦は、不動産事業だ。小林は沿線を宅地開発し、それを屋台骨とする経営構想を思い描いたのである。開業前に沿線各所に30万坪の用地を取得し、現池田駅の西側にある呉服神社周辺2万7千坪の土地に、日本初の郊外型分譲住宅地「池田新市街」を開発。電車が開通すると、一般市民をターゲットに売り出した。
この頃、持ち家に住めるのは富裕層だけで、庶民が家を持つなど夢のまた夢。
大阪市内でも、地方から出てきた多くの工場労働者が職場のそばで借家暮らしをしていた。工場が排出する煤煙などの公害に悩まされた人も多かっただろう。
小林一三はそんな庶民に向けて、「猪名川と五月山の自然に恵まれた田園都市・池田に、郊外住宅を持ってみませんか」と広告したのである。

池田付近の線路敷設工事(1909年)

当時は今のように電力会社はなく、企業は自前で発電していた。同社も例外ではなく、神崎川のほとりに建てた火力発電所で、電車の走行に必要な電気を発電していた。その余剰電力を池田新市街へ送電し、さらに池田市で初めて水道も整備。「三は単に家を建てて売るのではなく、電気と水道が使える新しい暮らしを提案したのです」と仙海さん。その結果、住宅は飛ぶように売れた。
もちろん、一般庶民が現金で買える値段ではない。そこで元銀行マンだった小林は、前職の知識を活かして割賦販売を取り入れた。今でいう、住宅ローンのさきがけだ。こうして、庶民のマイホームの夢を叶えたわけある。
その後、桜井駅周辺や豊中市につくつた運動公園と駅の開にも住宅地を開発し、何もなかった駅周辺は町へと変わっていった。同時に、簑面有馬電気軌道は沿線の住民を増やし、梅田への通勤客および通学の固定客の確保にも成功した。今でこそ、運輸業と不動産業は一体となって事業を展開しているが、その先駆者こそ、小林一三だったのである。
さらに小林は、「乗客を増やすためには、お客様が行きたくなるような場所をつくればよい」と、第二の作戦として、開業年に日本で3番目の動物園『箕面動物園』を終着駅の箕面に開園。1911年(明治44)には宝塚に温泉を開業した。その翌年には、温泉の隣にモダンな洋館を建て、国内初の室内プールなどのレジャー施設を集めた『宝塚新温泉パラダイス」をオープン。1913年(大正2)には婦人博覧会を初めて開催し、後に宝塚歌劇ヘと成長することになる「宝塚唱歌隊」を組織するなど、多くの計画を矢継ぎ早に仕掛けていった。これらの事業は功を奏し、多くの観光客が箕面有馬電気軌道で箕面や宝塚を訪れ、おおいに賑わった。

池田付近の線路敷設工事(1909年)

世界初のターミナルデパートが誕生

小林一三の斬新な発想と事業手腕について語る仙海氏

京阪神急行電鉄時代の路線図

 乗客を確保し、順調に滑り出した箕面有馬電気軌道は、続いて、梅田と、庶民が憧れるハイカラな町・神戸を結ぶ路線を開通させると、1918年(大正7)、「阪神急行電鉄株式会社」と社名を改め、「阪急」の呼び名で親しまれるようになった。その間も小林は、「ご乗客に喜んでもらうにはどうすればいいのだろう」と考え、頻繁に梅田駅の改札で乗客を観察していたという。
ある日、小林は乗客がたくさんの買い物をして電車で帰って行くことに気づく。
どこで買い物をしているのかというと、百貨店だ。
当時の百貨店といえば、京都大丸、名古屋松坂屋、東京日本橋三越といった江戸時代から続く呉服屋で、いずれも町の真ん中の一等地に店を構えていた。一方、駅は町外れの空き地に造られたため、駅から各店舗までは距離があった。大阪難波にあった高島屋も例外ではなく、梅田から4kmも離れた場所にあったため、店はお客を車で送り迎えしていた。
小林は閃いた。

阪急電車伝統のマルーン色とロゴ(小林一三記念館)

阪急百貨店ポスター
※橋爪紳也コレクション

「駅で買い物ができれば、ご乗客にこれほど便利なことはない」。そこで第三の作戦として、1920(大正9) 、駅のコンコース横に5階建ての阪急ビルを開業。そのlフロアに、東京日本橋から白木屋百貨店(現在の東急百貨店)を誘致し、梅田出張所としてオープンした。扱った商品は、食料品や日用雑貨などの必需品だけだったが、「駅で必要なものが買える」と喜ばれ、繁盛する。
この成功を見届けた小林一三は、白木屋の契約満了に伴い、1925年(大正14)、2.3階に自社直営の『阪急マーケット』を開業。立地条件のよさと好景気があいまって、マーケットには大勢の買い物客が訪れた。
同じビル内に開業した阪急直営の洋食専門店『阪急食堂』も、多くのお客を喜ばせた。大正時代は外食といえば、料亭かお茶屋で楽しむ程度で、定食屋のようなものはほとんどなかった。そんな外食文化が発達していない時代に、駅で洋食が食べられるのである。さらに、一皿30銭、定食l円とメニューと値段がはっきりわかる明朗会計も後押しとなり、買い物客や家族連れがハイカラな洋食を楽しんだ。

小林一三の斬新な発想と事業手腕について語る仙海氏

京阪神急行電鉄時代の路線図

大大阪時代の大衆のニーズを満たした阪急百貨店

阪急百貨店包装紙(1930年)

 順調に集客を伸ばした「阪急マーケット」は、1929年(昭和4) 、地上8階、地下2階の大規模拡張を行い、『阪急百貨店』として新装開店した。
建物の1階は電車のターミナル、その地階と2階より上階をデパートの売り場とするユニークな構造は、は世界初のターミナルデパートてとして大きな話題をさらった。
同時期に完成した阪急ビル1階コンコースも注目を集めた。設計デザインは、明治神宮や平安神宮などを手がけ、神社仏閣設計の第一人者としても知られていた伊東忠太。現代建築と近代建築、東西の様の粋を集めた日本最大のターミナルのコンコースは圧倒的な豪華さを誇り、阪神間モダニズムにも影響を及ぽしたと言われている。
この頃は、大大阪時代、真っ只中。経済的に余裕ができた庶民には「何か新しいものを買いたい」「どこか新しい所へ行ってみたい」「新しい遊びをしたい」という欲求が芽生えていた。阪急百貨店はそのニーズに応えるべく「いい品をどこよりも安く」とアピールしてファンを増やすことに成功。1936年(昭和11)には、日本最大規模の売場面積を誇る百貨店へと成長するのである。

ライスカレーを大衆に広め、外食文化が開花

阪急食堂の車内吊り広告(1923年)

阪急百貨店8階洋食堂(1935年)

阪急食堂の車内吊り広告(1923年)

 新装開店とともに、人気のあった阪急食堂は眺めのよい7.8階に拡充された。席数は平日1500席、土日には2000常も用意され、週末には5万人ものお客が訪れ大盛況となった。特に人気が高かったのは、ライスカレーである。
ランチタイムには多くの人々がその看板メニューを求めて訪れた。
当時、カレーといえば、ご飯は皿に盛られ、カレーは別の容器に入れられて運ばれる高級料理だった。一方、阪急食堂では、ライスにカレーをかけて提供しており、お値段もコーヒー付きで25銭と手頃。「お客様が多かったので、提供しやすく洗い物も少ない合理的なスタイルにしたのでしょう。このようなライスカレーは町の洋食店でも提供されていましたが、知名度を高めたのは阪急食堂かもしれません」と仙海さんは話す。
このように、電車のターミナル駅の上にデパートをつくって乗客を誘致するというやり方は、大阪の阪神電車をはじめ、関東や九州など多くの鉄道会社へ波及した。こうして阪急は、電車と住宅、百貨店の複合的な事業展開で梅田を牽引し、大大阪を華やかに彩ったのである。

阪急百貨店8階洋食堂(1935年)

戦後、大衆文化が復興し、新しい文化の発信拠点に

「宝塚グラフ」小夜福子特集(1939年)



小林一三の家族 後列右・一三 前列中央・こう夫人(1917年)

宝塚歌劇団渡欧記念アルバム
「日伊合作映画蝶々夫人」(1955年)


小林一三記念館外観

 阪急の事業が順調に成長する一方で、「大大阪」は第一次世界大戦後の恐慌や昭和恐慌、そして第二次世界大戦によってその繁栄に影を落とし始める。しかしその間も小林一_―-は、劇場の開場、映画産業への進出を果たし、映画の製作・配給興業、演劇興行の一貫経営を行う『東宝』を設立するなど、文化芸術事業にも力を注いだ。
戦後は、梅田にOS映画劇場、大阪ミナミに南街劇場を、1956年(昭和31)には梅田コマ劇場を開場し、戦後の大衆文化の復興に貢献。さらにテレビ時代の到来を予見し、産経新聞社会長らとともに「関酉プレビジョン放送」の発起人代表に加わるなど、1957年(昭和32)の永眠直前まで小林は精力的に活動し、大阪の発展と未来に大きく寄与した。

「宝塚グラフ」小夜福子特集(1939年)


宝塚歌劇団渡欧記念アルバム
「日伊合作映画蝶々夫人」(1955年)

小林一三の家族 後列右・一三 前列中央・こう夫人(1917年)


小林一三記念館外観

阪急と阪神が統合。キタの発展は、さらに未来へと続く。

阪急百貨店(左)と阪神百貨店(右)

梅田スカイビルからキタ北東方面を望む

 2006年(平成18)、梅田の繁栄を担ってきた阪急・阪神の二大企業が経営統合するという「歴史的事件」が起こり;阪急・阪神村こは西梅田エリアにまで拡大。2012年(平成24)、阪急百貨店が「劇場型百貨店」と「生活情報サービス業」をコンセプトに新装開店すると梅田はさらに活気づき、2013年(平成25)、JR大阪駅北側貨物駅跡地に開業した『グランフロント大阪』には、関西初出店のショップやグルメ、イベントを目当てに多くの人々が集まるようになった。
そして2022年には、阪神百貨店と隣接する新阪急ビルが、阪神梅田本店とオフィスビルとしてリニューアルオープンする。阪急・阪神が合併によって新たに生まれるこの施設は、梅田のみならず、大阪の玄関ロ・キタ全体を象徴する建物になるはずだ。
時代のニーズに合わせて、変化し続ける梅田。そして、大阪駅、グランフロント、北ヤードに新たに生まれた「うめきた」、ハービスエント、梅田スカイビルなどなど、様々な巨大インフラが集積する大阪・キタ。大大阪時代を担った新しい発想とチャレンジ精神は今も梅田、そしてキタに息づき、これからも未来へと向かう大阪の発展に大きく貢献することだろう。

阪急百貨店(左)と阪神百貨店(右)

梅田スカイビルからキタ北東方面を望む

北野劇場公演パンフレット(1938年)

 昭和7年、小林一三が率いた阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)は、東京べの進出をはかるべく、株式会社東京宝塚劇場を設立する。東京宝塚劇場のほか、有楽座、日本劇場、帝国劇場を傘下に収め、日比谷に劇場街をかたちづくる。浅草の劇場群を手中に収めていた松竹とともに、帝都の興行界を二分した。
「大大阪」の時代、同様の競合が大阪でも見受けられた。阪急は、映画制作と配給を担う東宝を創立するとともに、梅田での劇場経営を開始する。

1 北野劇場と梅田映画廟場

 阪神急行電鉄は、株式会社梅田映画劇場を設立、阪急百貨店に隣接する1800坪の用地に、劇場と複数の映画館に、食拡街などを併せもつ複合的な興行施設を計画した。
昭和12年12月9日、まず複合的なアミューズメント施設の中核に位置づけられた北野劇場が開場する。1600人収容の新しい劇場は、まわり舞台の中央部分がセリ上がると機構を導入するなど、当時としては両期的なものであった。米国のラジオ・シティに範をとった「近代式」であると自慢した。
地上4階、地下2階のビルディングには、洋食堂のほか、竹葉亭、スエビロ、サントリー・バーなども店を構え、地下には遊戯場もあった。昭和12年の年末には、隣地の梅田映画劇場、梅田地下劇場もオープンする。
幾何学的な構成美をもつモダニズムの建築デザインが話題となった。新築落成記念の絵葉書を見ると、ドアの上方に劇場の外観を描くアートが飾られている。また観覧券や包装紙のデザインにも、建物が意匠化されている。
演劇研究雑誌『東費』第48号(昭和12年12月)に掲載された北野劇場の開場予告には、「大阪市における道頓堀以北、及び北価阪神間の都會人、郊外居住の方々には場所的にも、至極便利であり、且つ明朗快適なアミューズメントの施設として、大きな意義を持つものと信じて居ります」とある。
市内だけではなく、阪神間の郊外住宅地に住む人たちを吸引しようとしたことがわかる。
西田慎三郎は同誌に文章を寄稿、「薔い殻を脱いだ近代の大阪は北野劇場を如何に迎へるでせうか。京阪神を極く短時間で往復し得るそれらの土地の人々に新たな魅力でありませう。況して賓塚までも大阪人を引き寄せる阪急系の経営ですから、うんと秘策があるでせう」と、新しい劇場への期待を述べる。

2 ターミナルの興行文化

雑誌「陽春の日本映画」

宝塚歌劇合同公演案内(1941年)

 梅田に出現したこの「連繋映画館」の出現は、大阪の興行界にセンセーションをまきおこした。
高谷伸は「北大阪の枢軸」と題した小文を同誌に寄稿、「大阪劇壇を統一し覇を誇つてゐた松竹にとって一敵國の出現たることは否めない事賓である」と指摘、「由来競争のない所に進歩は望まれない」と歓迎の気分を表明している。
従来は道頓堀や千日前に劇場が集中、主要な輿行場の多くが、松竹の傘下にあった。それに対抗するべく阪神急行電鉄は、東宝映画を設立して系列の劇場に作品を配給する体制を整えた。
あわせて交通が便利な梅田のターミナルに隣接する場所に、内外の映画に加えて、レビューや芝居を上演する典行施設群を建設した。
新規に開業した北野劇場に、大阪の文化人や演劇関係者は何を期待したのだろうか。作家の藤澤桓夫は「明るい劇場」で「大阪の寵児秋田賞君のユーモア物などを新しい形式」で上演して欲しいと希望している。また西田慎三郎は「藝術的な香り高いもの」も望ましいが、むしろ「大衆的な狂言を」と要望する。
の中川龍一は、関西の観客の好みは「刹那主義的快楽派」ではなく「実際主義的進取派」であり、特に北野劇場の立地から観客層は知識階級になると推測、「高級な面白さ」を提供するべきだと主張する。具体的には、知識人が愛好する外国映画の「面白さ」を狙った劇、『文藝春秋』や『新青年」などに掲載された文学作品を再現する舞台などが良いのではないかと例示する。さらには、時には採算を度外視した「藝術的水準の最高を目指す演劇」も公演も欲しい。また大歌劇や曲馬団など大規模なスペクタクルも一策と提案している。

戦後オープンした梅田コマスタジアムと
北野劇場(1956年)※阪急文化財団提供

北野劇場では、宝塚少女歌劇や日劇ダンシングチーム、古川縁波一座などの興行が人気を集めた。このモダンな劇場が、「大大阪」における興行文化の新たな拠点となり、梅田のターミナル文化の中心となる。その良き伝統が、戦後のOS劇場や梅田コマ劇場、さらには現在の梅田芸術劇場、シアター・ドラマシティに継承されているわけだ。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

この店、この一品。
[ 第4回 ]シャンテリアテーブル  「国産牛ロースステーキ」

ゴージャスでロマンチックな
空間の中で楽しむ上質ランチ。

1929年(昭和4)、8本初のターミナルデパート『阪急百貨店」の開業後、1931年に建築界の巨匠、伊東忠太氏の設計デザインによるコンコースが完成した。アーチ型の天井、東西両端の日と月、四隅の行龍、朱雀、白虎、玄武のモザイク壁画を配した優美な空間は、多くの建築ファンを魅了した。その意匠はうめだ本店の建替に伴って姿を消したが、グランドオープンに伴って、グランドカフェ&レストラン「シャンデリアテーブル』に移築され、そのゴージャスでロマンチックな姿が百貨店13階に美しく再現された。
メインホールは、アーチ型天井と高さ約3.5メートルにも及ぶ全面24金仕上げのシャンデリア、モザイク壁画が彩るきらびやかな大空間。幾つもの円卓が店内全体にゆとりを持って配置されており、かつての大食堂の趣きが感じられる。さらに奥には、スタイリッシュなサンルームとゆったりとくつろげる開放的なテラス席が広がり、ここが百貨店の中であることを忘れそうになる。
開放感にあふれ、非日常の感覚を楽しめるそんな同店の看板メニューは、「国産牛ロースのステーキオニオンガーリックソース」。食べごたえのある国産牛が使われており、パンチの効いたガーリックソースが食欲をそそる。「添え物の野菜は、飽きることなく召し上がっていただけるよう、それぞれ味付けを変えています」と店長のチャーリーさん。スープとサラダ、パン(orライス)、ドリンク付きで、パンはおかわり自由というサービスもありがたい。子ども同伴で食事を楽しめるようお子さまランチも用意されており、週末は家族述れで訪れるゲストは多いそう。

デザートには、フワフワのシフォンケーキに、生クリームとキャラメルソースをトッピングした「エンゼルフードケーキ」がおすすめ。ボリュームたっぷりなので、お腹を空かせて訪れたい。

グランドカフェ&レストラン
シャンデリアテーブル


大阪市北区角田町8-7 阪急うめだ本店13階
電話番号: 06-6313-1530
営業時間:11 :00-22:00
定休日:不定休(阪急うめだ本店に順ずる)

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