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私たちについて

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特別企画 上方文化を支えた、町人たちのエネルギー。

大阪の夏を彩る天神祭の舞台、天満天神エリア。
今も昔もにぎわいの絶えない日本一長い商店街、人の力が集結し約60年ぶりに復活した落語の定席、江戸時代から脈々と受け継がれる町人文化。
今も昔も町人たちが支え、発展させてきた、「これぞ大阪!」というべき天満天神の魅力に迫る。


「天下の台所」として栄えた江戸時代

天神橋1丁目から7丁目まで全長26km。
日本一長い商店街として知られる「天神橋筋商店街」。ここは人々の暮らしの場であり、今もっとも大阪らしい町として、国内外から注目を集めている。では、なぜ天満天神エリアは、こんなにも賑やかな町になったのか。それを紐解くには平安時代まで遡る。菅原道真公の魂を鎖めるために祭られた北野天満宮に続き、天満の地に大阪天満宮が建てられたのは949年のこと。
その後、天満宮を中心とした門前町が形成される。さらに江戸の時代には、水上交通の要所である大川の周辺に問屋街や青物市場が集積。
「天下の台所」を象徴する地域として“大坂”の経済を支えていく。

戦後の闇市が再出発のきっかけに

では、実際に天神橋筋商店街を歩いてみよう。
北の玄関旦天神橋筋六T目駅」を地上に上がると、狭い道幅の両側にひしめくように店が並ぶ。自転車を押して買い物する人、昼間から一杯やっている人など、そこには気取りのない日常の風景が広がっている。この駅のルーツは大正の時代に開業した「新京阪鉄道天神橋駅」で、始発駅として大阪市電の乗り継ぎ駅として大いに賑わったそうだ。
アーケードをしばらく歩くと「JR天満駅」に出る。
駅前にはかつての青物市場、天満市場が広がっており、新鮮な食材を求めて今も多くの人が足を運ぶ。
昭和20年、天神橋筋商店街は大阪大空襲でほぼ消失。戦後、この2つのターミナル駅周辺が闇市として発達したことから、商店街は2 つの駅に挟まれた6、5、4丁目あたりから徐々に復興していった。道輻や店の間口が狭いのは、その名残だったのだ。さらに南へ進むと天神橋3丁目だ。地図を見ると「与力町」や「同心町」という町名が並び、江戸期、この辺りに大坂奉行所を中心として武家屋敷が並んでいたことが伺える。「南森町駅」と「JR大阪天満宮駅」が地下で重なる横断歩道を渡ると、船渡御を飾るお迎え人形が出迎えてくれる。
ここから2丁目、1丁目と続き、いよいよ大阪天満宮の参拝道という赴きが深まっていく。

人の力が築いた60年ぶりの定席

ようやく左手に天満宮が見えてきた。大きな門をくぐると目の前に荘厳な神殿が現れる。普段は静かな境内だが、天神祭前ともなると人も多く、うめるような町の熱気が感じられるようだ。江戸時代、境内には八軒の寄席小屋があり「天満八軒」と呼ばれてた。また、天満宮の連歌所宗匠だった西山宗因の下で井原西鶴が学び、近松門左衛門が近くに居を構えるなど、ここを拠点に町人の上方文化が開花した。
現在、天満宮に隣接するのは、上方落語の拠点「天満天神繁昌亭」である。60年ぶりの定席として2006年に誕生。官の力に頼らず民の力だけで設けられた繁昌亭は、町の誇りとして商店街の人々から愛されている。ふと気づけば夕暮れ時、町はすっかり夜の顔だ。いつのまにか繁昌亭の提灯の灯りが消えている。夜の寄席が始まった合図だ。今宵も落語家たちの芸が場内を大いに沸かせることだろう。長い時を経て町人たちが育んだ文化とにぎわいは、時代と共に変化しながら、これからも町人たちの手によって脈々と受け継がれていく。

数々の困難を乗り越えた天満天神繁昌亭は「奇跡」でした。

大阪商工会議所地域振興部長
堤 成光 つつみしげあき
繁昌亭の構想時からプロジェクトに関わり、2009年に行程を記録した「寄跡の寄席」(140B)を出版。
現在は大阪商工会譜所地域振興部長として、大阪万博の誘致などに取り組んでいる。

天満天神繁昌亭の開席から早10年以上が過ぎました。私は構想時から関わりましたが、当時の桂三枝師匠(現在は文枝)のお手伝いをしたに過ぎません。師匠には構想力と発信力、行動力、そして人を惹きつける「磁力」があった。師匠がいなければ、このプロジェクトは成功しなかったでしょう。
上方落語界悲願の定席をどこに作ろうかというとき、大阪府から紹介してもらった裔店街の一つが天神橋筋商店街です。当時の土居年樹理事長が引き受けてくださったのが事の始まりでした。そこからは会議の連続で、府、市、上方落語協会、天神橋筋商店街、そして商工会議所からは私が出席し、いろいろな話し合いをするのですが、時には揉めることもありましたね。最初、テント小屋のような設計が上がってきたんです。資金が限られていたので仕方ないのですが、師匠は「絶対あかん」。着物で来てもらえるような建物にしたいと。
長く続かなければ意味がないという、一つの覚悟だったのだと思います。
やっとの思いで浄財を集め、開席したもののお客様が入るか不安でした。しかし、これは大きな見込み違いで、繁昌亭は「落語」という素睛らしいコンテンツの固まりだった。これは作ろうと思っても作れません。また、自分たちで作った小屋だから、落語家はここを守るために一所懸命に頑張るわけです。繁昌亭に出ることが誇りであり、若手や中堅はここでトリを務めれば一流と言われる。つまり、ホームグラウンドですね。東京の定席には経営者がいますが、繁昌亭は連営も番組を作るのも協会がやる。こんな小屋はH本中探しても見当たりません。
繁昌亭には連日落語ファンが押し寄せ、弟子入り希望者も増えていると聞きます。落語の裾野が広がったことは間違いありません。そして、商店街の人たちも喜んでくれている。
繁昌亭を核に上方落語がますます元気になることを、これからも信じています。

大阪商工会議所地域振興部長
堤 成光 つつみしげあき
繁昌亭の構想時からプロジェクトに関わり、2009年に行程を記録した「寄跡の寄席」(140B)を出版。
現在は大阪商工会譜所地域振興部長として、大阪万博の誘致などに取り組んでいる。


民が動いてコトを動かす。これぞ、大阪の「反骨精神」。

天神橋三丁目商店街振興組合
重矢 錐宏 おもやとしひろ
天神橋筋商店連合会元副会長。同会長の故•土居年樹氏と共に2005年より天満天神繁昌亭開設準備委員会として繁昌亭の開席に尽力。現在も商店街の活性化に取り組んでいる。

天神橋筋商店連合会の会長を長く務めた土居年樹さんと一緒に、商店街を盛りあげる施策を重ねてきました。当時の桂三枝師匠から「落語の定席を」というお話があった時は、私たちから天満宮の宮司さんに声を掛けさせてもらい、「本気なら駐車場の敷地を提供しますよ」とご厚意により無償で借り受けることができました。
土地はあるけれど建設費はゼロでしたから、チャリティー寄席を催したり、募金箱を持ってイベントに参加したり、落語家さんと一緒に募金活動に奔走しましたね。「地元の商店街が親身にならんとあかん」と土居さんがよく言っていました。
そして、最後は2億4千万円もの浄財が集まった。官は一円も出していません。すべて、企業や市民の皆さんが寄付してくださった。
民が動いてコトを動かす。これぞ、大阪の反骨精神やないでしょうか。繁昌亭は、私たちの自慢です。
天神橋筋商店街は町ごとに分かれていて、それぞれが張り合いながら、切磋琢磨しながら前に進んできました。昭和20年の大空襲ですべて焼けましたから、皆でゼロから頑張ってきたんです。私たち天神橋筋三丁目は「他とは違うことをせなあかん」といろんなことをしてきました。昭和50年代に空き店舗を買い取って、自分たちでカルチャーセンターを開いたのもその一つです。寄席やコンサートを開いたり、プロのモデルを呼んでファッションショーをしたり、しまいにはお化け屋敷まで(笑)。全部、自分たちの手でやりました。今思えば、文化や芸能を受け入れる士壌は、その頃に作られたのかもしれません。
最近はキタの開発が進み「お客さんを取られませんか?」とよく聞かれますが、まったくそんなことはありません。キタですましてお買い物をしてきた人が、ここでは庶民の顔になって野菜を買って帰る。もう次元が違うんですね。そして、いちばん大阪らしい顔をしているのが、この商店街なんやないかなと思います。

天神橋三丁目商店街振興組合
重矢 錐宏 おもやとしひろ
天神橋筋商店連合会元副会長。同会長の故•土居年樹氏と共に2005年より天満天神繁昌亭開設準備委員会として繁昌亭の開席に尽力。現在も商店街の活性化に取り組んでいる。

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