温故知新 大大阪時代を歩く 第3回 通天閣&天王寺動物園with夢のルナパーク

(左)新世界平面図(右)初代・通天閣とルナパーク

新世界・恵美須門

1903年(明治36年)、大大阪時代到来の源流となる一大催事が当時の天王寺・今宮地区を会場にして開催された。第5回内国勧業博覧会である。博覧会跡地は天王寺公園として整備され、9年後の1912年(明治45年)、公園西隣に「大阪新名所」の触れ込みで新たな歓楽街「新世界」が誕生。やがて時代を超えてこの街のシンボルとなっていく通天閣、奇想天外な夢の遊園地・ルナパーク、そして1915年(大正4年)開園の天王寺動物園は、この時代の熱気を帯び一本のラインで繋がっている。誕生から1世紀を超えて今再び活気づく「新世界・通天閣」界隈の人々の夢と希望と活力の足跡をたどる。

新世界・恵美須門

博覧会で活気づいた天王寺一帯、そして「新世界」の誕生

第5回内国勧業博覧会 正門 ※画像提供: 橋爪紳也コレクション

土居通夫

 新世界が誕生することとなるきっかけは、1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会に遡る。
この博覧会は政府主導で行われ、第3回までは東京・上野、第4回は京都市・岡崎が会場となった。第5回目開催に当たっては、再度東京の声も上がる中、当時の第七代大阪商工会議所会頭を務めた大阪政財界の重鎮・土居通夫氏の尽力により、大阪への誘致に成功。1897年(明治30年)の大阪市編入前は旧西成郡今宮村及び東成郡天王寺村に属する畑地や荒地であった広大な土地を整備し行われた同博覧会は、14ヶ国18地域の参加による事実上の国際博として開催され、5ヶ月で530万人もの来場者を集めて大盛況のうちに幕を閉じる。
 明治30年代は大阪市の南端に位置する「郊外」だった天王寺一帯は、博覧会をきっかけに大きく変貌を遂げることになる。博覧会閉会後の1909年(明治42年)、東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園として整備され開園。一方、現在の浪速区に入る西側の約2万8千坪は土居通夫氏が社長を務めた大阪土地建物株式會社に払い下げられ、3年後の1912年(明治45年)7月3日、「大阪新名所」の触れ込みで全く新たなコンセプトの歓楽街「新世界」が誕生した。

恵美須館

『大阪新名所 新世界』(大正2年刊)

『大阪新名所 新世界』 目次

現在の新世界

ルナパーク全景

通天閣観光株式会社・西上雅章社長

パリ風の放射状街区とアメリカ式大遊園地

 「新世界のいわれは世界各国の建物を模して作った街、ということだったようです」と話すのは、通天閣観光株式会社代表取締役社長の西上雅章氏。大正二年刊、同社所蔵の貴重書『大阪新名所 新世界』の分厚い頁をめくって当時の「新世界平面図」を示しながら、「当時まだまだ後進国だった日本は欧米への憧れと同時に近代国家として追いつきたいという思いが強く、それで北側にパリを模した放射状の街、南側にはアメリカを模した街を作り、そこにニューヨークのコニーアイランドにあった遊園地ルナパークを開園させたということです」と説明する。
 同平面図に目を落とすと、縦長の「新世界」の敷地は上中下にほぼ三分割されており、下(北側)は、敷地上部中央にある半円形の「庭園」(公園)を囲むロータリーから三方に放射状の道路が伸び、それぞれの街区に区画と敷地が整然と美しく配置された極めて近代的な街並が形成されている。
 一方、敷地の南側、「新世界」全体の中央部に相当する区画には、建設中の建物も含め、東西南北に活動写真館(映画館)、大劇場、興行館などのエンターテインメント施設が賑々しく居並び、それら四方側面の建物とストリートに囲まれた中央に日本初のテーマパークであった「ルナパーク」が位置しているのが見える。
 ルナパークには日本初登場のさまざまな大型遊戯施設が設置されており、上下2段式の大型円形フレームが回転しながら上下するその名も「サークリングウェーブ」を始め、「スケーチングホール」(ローラースケートホール)、メリーゴーランド、音楽堂、不思議館(豊臣秀吉主人公のタイムマシン劇上演館)、動物舎、温水プールなどもあり、現在の遊園地のルーツとなった多種多様なアトラクションが、新し物好きの大阪市民の耳目を集め、かつまた大いに楽しませたであろうと思われる。

通天閣観光株式会社・西上雅章社長

エッフェル式高塔「通天閣」とホワイトタワー

初代・通天閣

ルナパーク夜景

 しかし何と言っても、新世界のシンボルとなったのは、竣工当時東洋一の高さ(約75m)を誇った初代・通天閣であった。再び「新世界平面図」を見ると、敷地の左右を貫く「通天通」と名付けれた通りを挟み、その北に三方に広がる通り(右から「恵美須通」「玉水通」「合邦通」)と広がる街並を遠望し、南にルナパーク全景とその前後の建物群を見渡す敷地全体のど真ん中に「高塔・通天閣」が立っていたのが解る。設計は、当時斬新で意欲的な建築で知られた設楽貞雄。「エッフェル式高塔」と呼ばれた初代・通天閣も、パリの凱旋門の上にエッフェル塔を載せたようなユニークな外観であったが、この形状にはモデルがあったと言われている。前述の第5回内国勧業博覧会のシンボルタワーとなった大林組建設の「大林高塔」である。初代・通天閣もまた、大林組が建設を担当した。
 初代・通天閣の落成式典には大阪市民がどっと詰めかけ、その後も連日人々が押し寄せた。当時の入場料は十銭。市民の度肝を抜き人気をさらったのは、通天閣とその真正面に位置して建てられたルナパーク内のシンボル塔・白塔(ホワイトタワー)との間の高空に、ロープウェイが架けられ、通天閣とルナパークの間を昼も夜も行き来したことである。通天閣、またルナパークとも夜になると美しくイルミネーションが輝いてライトアップされた。
 さらに、ルナパークの上(南側)の残る三分の一の広大な敷地は、旅館、料理店、さらには「噴泉浴場」なる施設の建設予定地だった模様で、これらも含め「新世界」が全く新しい考え方と本格的な建物、施設、インフラを整えた「夢の街」であったことがうかがい知れる。「新世界」は、まさに大大阪時代到来のプロローグの地であったと言える。

博覧会が産んだもう一つの大きな遺産・天王寺動物園

大阪市立天王寺動物園・牧慎一郎園長

府立大阪博物場から譲られたオス象の団平

 日本で3番目の動物園、大阪市立動物園(現:大阪市立天王寺動物園)誕生の契機となったのもまた第5回内国勧業
博覧会である。前述したように、会場跡地の東側は1909年(明治42年)に天王寺公園として整備された。動物園開園はその6年後だが、博覧会開催時に人気を博した余興動物園から払い下げられた象など一部の動物が、1875年(明治8年)より現在の『マイドームおおさか』(中央区本町橋)付近にあった府立大阪博物場の動物檻のコレクションに加わり、開園時にそれらがまとめて天王寺へと移ってきた。
 市立動物園が天王寺に設けられたきっかけは、1909年(明治42年)に堂島川北岸で発生した「北の大火」である。幸い博物場への延焼はなかったものの、町中に動物施設があることが問題となり、大阪府は動物檻の閉鎖を決定。その際に動物を引き取りたいと手を挙げたのが大阪市であった。
 「東京も京都も立派な動物園を持っているので、大阪市としても動物園が欲しかったのでしょう」と説明するのは、大阪市立天王寺動物園の牧慎一郎園長。こうして1915年(大正4年)1月1日の開園に先立ち、前年約60種180点の動物の天王寺への引っ越しが行われた。大半は車などで運ばれたが、象は松屋町筋を約10時間かけて歩いたという。その様子を一目見ようと見物人が集まり、周辺の物を壊しながら歩く象の後ろを、係員が謝りながらついていったという逸話も残っている。

大阪市立天王寺動物園・牧慎一郎園長

府立大阪博物場から譲られたオス象の団平

見物客でごった返した大大阪時代

リタとロイドの食事風景

木村十四世名人(当時八段)と将棋を指すリタ

 大騒ぎの末に開園した動物園の敷地面積は、現在の4分の1程度の2.6ヘクタールほど。しかし開園当初から多くの人々が押し寄せた。大大阪時代まっただ中の1934年(昭和9年)には、キリンやホッキョクグマなどが仲間入りして敷地も拡大され、年間有料入場者数は同園史上最多の250万人を記録。園内は商店街のような賑わいだったと思われる。
 当時、動物園は見世物の要素が強く、来場者は動物の芸当を期待して同園を訪れた。中でも人気が高かったのは、1932年(昭和7年)にやって来たメスのチンパンジー、リタである。彼女は「リタ嬢」と呼ばれて人々に愛され、歯を磨いたり、将棋名人と将棋をさしたり、と来場者を楽しませた。「ママ、これがチンパンジーだね」「いえいえ坊や、これはリタジョーという動物よ」という小話もあり、リタの人気ぶりを物語る。
 そのうち、リタのパートナーとしてオスのチンパンジー、ロイドが来園。めでたく赤ちゃんを授かるが、1940年(昭和15年)、リタは死産の後、間もなく死亡。園内では盛大に告別式が行われ、ロイドが焼香をする姿が写真に残されている。その後つくられたリタとロイドの像は今も園内に残っており、リタとその赤ちゃんの剥製は同園で大切に保管されている。

木村十四世名人(当時八段)と将棋を指すリタ

リタとロイドの食事風景

楽しみ、考え、学べる動物園をめざして

天王寺動物園で人気のジャガー

 時を経て『大阪市立天王寺動物園』と名前を変えたこの動物園は、今も市民に愛されており、この数年は、夜行性動物の生態を観察できる「ナイトZOO」を開催し好評を博した。
 動物に関する明るい話題も提供しており、オスのホッキョクグマがお嫁さんを迎え、元気な赤ちゃんを授かったニュースは記憶に新しい。また、肉食動物の生き餌として連れて来られ、3度の絶体絶命のピンチを乗り越えたオンドリのマサヒロ君は「奇跡のニワトリ」と呼ばれ、「会うと幸せになる」と大ブレークした。
 「ニワトリは珍しい動物ではありませんが、都市部の人たちがニワトリに出会う機会はほとんどないし、ましてや日本固有の動物を見るチャンスは滅多にありません。近年、外国人入場者も増えているため、今後の整備計画の中で日本の動物にも力を入れていきたいと考えています」と牧園長。文部科学省の官僚から自ら公募に手を上げて天王寺動物園園長となった牧氏は、動物園としてのさらなる面白さ、楽しさ、クオリティ、そしてスケールアップに意欲的に取り組む。「日本の森」や「東南アジアの森」をテーマにした新たな施設を開設するほか、海洋動物ゾーンの大改修を進め、飲食・物販施設も充実させる予定だ。完成すれば、大大阪時代の賑わいが再び戻ってくるかもしれない。

天王寺動物園で人気のジャガー

戦時下で被災し、解体された初代・通天閣

 1920年代後半から1930年代前半にかけてピークを迎えた大大阪時代、とりわけ新世界の賑わいは大変なもので、初代・通天閣が見下ろす放射状の街区には、約400軒もの商店や店舗、娯楽施設、会社が軒を連ね、地方からは「新世界」を目ざして多くの人が移り住んだ。繁栄ぶりと共にその飾らない庶民的な街の雰囲気が「上阪」して来た人々に好まれたのである。
 しかし、やがて大きな転機が訪れる。戦時下の1943年(昭和18年)1月16日の夕方6時過ぎ、直下にあった映画館「大橋座」から出火。強風に煽られた猛烈な火の勢いは脚部に及び塔は強度不足に陥った。その後、軍需資材として不足していた鉄材供出のため、初代・通天閣は遭えなく解体された。新世界は人々を引き寄せていた街の大きなシンボルを失った。さらに、1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲により、新世界も大きく被災。街はほぼ壊滅状態となった。

「ウルトラC」が可能にした、通天閣の再建

当時を振り返る西上社長

通天閣再建のために立ち上がった有志7人

 しかし、通天閣と新世界をめぐる物語はそこで終わりではない。寧ろここからが始まりである。通天閣再建のために立ち上がった人々がいた。「新世界町会連合会」の商店主たち有志7人である。
 「新世界の復興が遅れているのは通天閣がないからや、と思ったそうです」と、通天閣観光株式会社の西上雅章社長は、通天閣再建の中心人物となった当時の新世界町会連合会会長の雑野貞二氏について語る。事実、新興の阿倍野や難波に人を奪われ新世界の活気は失われていた。「そこで、再建のための資金づくりにまず株式会社を興して出資金を募ることを思いついた訳です」と西上社長。その会社こそが今に至る通天閣観光株式会社であり、雑野貞二氏はその初代社長を務めることになる。
 雑野氏をはじめ、後に同社の役員を務めた曾和繁雄氏、知里正雄氏などの有志7人が、全町内会に「通天閣再興の賛否」のアンケートと共に出資申込を募ったところ、その総額は1億円にも及んだ。これに「再建は住民の総意」と意を強くした彼らは出資金収集に回る。ところが、蓋を開けてみると、最終的に半分の約5千万円しか集まらなかった。しかし、それでも彼らはあきらめなかった。金は何とかするしかない。
 まず日本一、東洋一の塔をとの思いから設計を当時高層建築の第一人者だった内藤多仲工学博士に依頼。次に、建設業者の選定に当たるが、大手が見積もった建設費は4億を遥かに超えており、とても賄える金額ではない。そこへ当時新興の奥村組が3億1千万円の見積で名乗りを上げる。総額の1/3を出資金で賄えば、残り2/3は銀行融資で算段が成り立つと考えた有志達。これなら何とかなる。
 しかし、もう一つ難問が残っていた。肝心の塔の建設用地である。戦災で土地は失われ、残った候補地は新世界中央部にある大阪市所有の半円形の公園のみ。ここに建てるしかない。ここで奔走したのが当時の連合会の若き役員・西上一氏。西上雅章社長の父である。「公共用地に塔は建てられない」との市側に対し通天閣の公共性を再三訴え、ついに建設許可を勝ち取る。
 さらに、建設業者の奥村組社長奥村太平氏の決断で、不足していた手元資金6千万円を奥村組自らが株主となり出資。同社の資本金が1億4千万円しかない時代にである。これで、資金、土地、設計と建築業者すべてが揃った。「まさにウルトラCやったと思いますわ」と、西上雅章社長は感服の想いで述懐する。こうして、1956年(昭和31年)10月28日、地上103m、初代を28m上回る高さの第二代・通天閣が、ついに完成・開業した。この日、新世界のみならず、大阪中が湧き立った。

通天閣再建のために立ち上がった有志7人

当時を振り返る西上社長

新世界を訪れる外国人観光客

戦後「新世界」の復興から、大阪全体のシンボルへ

新世界を訪れる外国人観光客

多くの若者が通天閣に引き寄せられる

 第二代目再建より今年で61年を迎える通天閣は、多くの若者たちを含む日本人観光客、さらに年々増え続けるアジアと世界各国からの来訪者で大いに賑わっており、来場者総数は年間120万人を突破する。昨年の60周年に向けての記念事業として着工2014年(平成26年)、タワーとしては世界初となる免震装置を脚部を切断して取り付ける大掛かりな工事を実施。安全を強化した。また、避雷針を取り換えて高さは108mとなった。さらに、初代・通天閣の天井画を復刻。当時、天井画に広告を出稿していた「クラブ化粧品」の中山太陽堂(現・株式会社クラブコスメチックス)が協力した。
 一方、1957年(昭和32年)に通天閣と主塔広告賃貸借契約を締結し、同年7月22日よりネオン広告で浪速の空を輝かせ続ける株式会社日立製作所も、まさに通天閣と共に歩んできた企業である。日立製作所関西支社総務宣伝グループ主任は、関東に本社を置く同社が通天閣のネオン広告掲出を決めた背景について「当時弊社がテレビを販売し始めたところで、強豪ひしめく関西でも社名と製品の浸透を図りたかったようです」と説明する。2017年(平成29年)のリニューアルでは、約60年間使われて来たアナログの大時計をLEDビジョンにリニューアルした他、それまでの6色から12色へと多彩な色のライトアップを可能にした。
 「伝統はイノベーションの積み重ねだと思います。古びると陳腐化し、飽きられます」と語る西上雅章社長。かつて多くの映画館が軒を連ね、東京・浅草、神戸・新開地と並ぶ映画の街でもあった新世界は、高度経済成長期の終わりから一時長い低迷期を迎えた。しかし、今またソウルフードと言われる「串カツ」の街としても賑わい、また映画のロケ地や朝ドラの舞台にもなって、再び活況を呈している。
 その中にあって通天閣は、大阪人に親しまれる丸みを帯びた外観、復興にまつわる物語、将棋の名人・阪田三吉や「幸運の神様」ビリケンの人気、また多種多様なイベントにより、今や新世界のみならず大阪全体のシンボルである。今日もすっくと新世界の空に立ちこの活気あふれる街を見下ろす通天閣は、これからも大大阪時代と同様、人々の夢と希望と活力の源泉であり続けることだろう。

多くの若者が通天閣に引き寄せられる

取材協力: 通天閣観光株式会社 大阪市立天王寺動物園 株式会社日立製作所
出典: 「大阪新名所 新世界」(大正2年刊) 「通天閣50年の歩み」(平成19年発行) 「大阪市天王寺動物園70年史」(昭和60年発行) 橋爪紳也コレクション

 東京の上野公園、京都の岡崎公園、名古屋の鶴舞公園など、博覧会など各種のイベントを開催し、都市の繁栄に不可欠な祝祭性を担った地区が各都市にある。「大大阪」でいえば、天王寺公園界隈がその役割を果たした。

1 勧業博覧会の賑わい

 内国勧業博覧会は、国産品を集めてひろく展覧するとともに、優劣を競わせることで殖産興業をはかる政府主催の産業見本市である。

 大阪財界は、明治36年に予定された第五回内国勧業博覧会の開催誘致に成功する。万博の日本誘致をはかるステップとして政府は意識、敷地は京都で開催された第四回の10倍強、入場者は530万人を数えるなど、規模・内容ともに明治期では最大のイベントとなった。

 正門は高さ15間、堂々たるアーチである。正門広場の左手に、金鯱を掲げる名古屋城天守を模した愛知県売店、右側には高塔をそなえる東京売店がたつ。会場内には、教育館・参考館・通運館・機械館・体育館・台湾館・美術館など、大林組が手がけた仮設の展示館が洋風の街並みをつくる。

 参考館などの特設館には、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど18ヶ国の産品も収められ、英国の貿易商やカナダ政府は単独の展示館を用意した。内国博だが、国際色の強い催事となった。

 各種の余興も用意された。メリーゴーランド「快回機」、ウォーターシュート「飛艇戯」、冷蔵装置を体感する「冷蔵庫」など、いずれも日本初をうたった。大阪初のエレベーターを装置した「大林高塔」、光学・電気を利用した米国女優の幻想的な舞踏を上演する「不思議館」、ジオラマで海外旅行を疑似体験する「世界一周館」なども人気を集めた。

 さらに日本で初めて、会場全体の夜景を彩るイルミネーションが導入された点も特筆に値する。第五回内国勧業博覧会は、単に動員数が多かっただけではなく、国際性や都市の電化の可能性を示した点など、将来の都市の姿を示す画期的なイベントとなった。

2 博覧会の記憶

 第五回内国勧業博覧会の跡地には、新世界と天王寺公園が整備される。双方の事業にあって、博覧会の経験が活かされる。

 新世界は、エッフェル塔を模した通天閣、米国流の遊園地であるルナパーク、ドイツ風の噴泉浴場など、世界各国の娯楽が混在していた。夜景の演出も工夫がなされた。かつての博覧会の記憶を継承、いわば「恒常的な博覧会場」とすることが意識されたデザインであった。

 対して天王寺公園では、かつて行なわれた博覧会の賑わいを再現するべく、官民のイベントがしばしば行われる。皮切りとなったのが、明治39年に、日露戦争の勝利を祝うべく企画された「戦捷博覧会」である。会場内では、日本初となる観覧車が人気を集めた。

 その後も天王寺公園では、大正年間から昭和初期にかけて、明治紀念拓殖博覧会、日本産業博覧会、大阪衛生博覧会、大礼記念博覧会、納涼博覧会、大阪化学工業博覧会、新聞博覧会、交通電気博覧会、鞘夏博覧会、電気博覧会、国際原動機博覧会、交通文化博覧会など、各種の博覧会が実施されている。

3 「大大阪」の誕生を祝う

 「大大阪」の計画立案を祝う祝祭も、天王寺公園が会場となった。

 大正14年3月15日から4月30日まで、大阪毎日新聞社が主催、大阪市が後援するかたちで「大大阪記念博覧会」が開催されたのだ。周辺町村を合併して市域を拡張、都市計画を提示した行政と、創刊から1万5千号を数えた新聞社が、双方の祝賀を兼ねて企画した記念行事である。

 第1会場である天王寺公園には、本館・パノラマ館・機械館・専売館・大陸館・台湾館・朝鮮館などが建設された。未来のあるべき姿を巨大な模型で再現した「大大阪パノラマ」に加えて「水の大阪」「文化の大阪」「工業の大阪」「交通の大阪」「女の大阪」「服飾の大阪」「信仰の大阪」「食料の大阪」「建築の大阪」など、27種類もの主題のもとに「大大阪」の現状を紹介する展示が、中核的な展示であった。多彩な切り口から「大大阪」の多様性が表現された。

 いっぽう第2会場となった大阪城内では、天守台に豊臣秀吉を記念する「豊公館」を建設、のちに天守閣の復興をはかる先例となる。また三越、大丸、高島屋、松坂屋、十合などの百貨店も、売り場の一部に「協賛館」を設けた。

 「大大阪記念博覧会」では、情報の媒介者である新聞社が主催、消費社会の核である百貨店が連携した。官が勧業策として博覧会を主催した明治時代とは異なり、大衆社会が開花した「大大阪の時代」には、博覧会など都市的な祝祭も民間が主導するようになったわけだ。

※画像提供: 橋爪伸也コレクション

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
21世紀科学研究機構 教授
観光産業戦略研究所 所長

この店、この一品。
[ 第3回 ]総本家 更科  「天ざる」

関東の粋を、更科そばに込めて。

通天閣から放射状に伸びた通り沿いに、老舗然とした重厚感を醸す『総本家 更科』。そばを中心に、うどんや丼ものなどを提供する食事処だ。現在、暖簾を守る四代目当主、毛受敬一さんは言う。「新世界ができた明治の終わり頃に創業したと聞いています。開店当時は、『東京から来た生粋のそば屋』と売りだしていたようですよ」と言う。その謳い文句どおり、蕎麦の実の中央部「更科」を挽いて打ったそばは白く美しく、大阪の新しいもの好きの好奇心をかきたてたことだろう。

戦火で店舗が焼失してからしばらくは阿倍野筋で店を営んでいたが、1956年(昭和31)、通天閣の再建と同時に現在の場所に移転した。現存する建物は、再建当時のまま残されており、暖簾をくぐると昭和の時代にタイムスリップした気分にさせられる。

今では珍しい木枠で縁取られた大きなガラス窓、漆を塗ったように艶やかな高い天井は空間を広く見せるのに一役。網代編みで飾られた勘定台、凹凸の細工が美しいガラスには職人技が感じられ、先々代が書いたというダイナミックな品書きからは再建当時の活気があふれ出る。昭和を知らない世代も、この古き良き時代を思わせる空間にほっと心が落ち着くことだろう。

設えが昔のままなら、ここでいただくそばも当時のまま。毛受さんは、先代から受け継いだとおりに毎朝更科そばを打ち、一食一食、心を込めて仕上げている。どれも美味だが、毛受さんのおすすめ「天ざる」は、茹で立てのざるそばに、エビ天や野菜天などが乗せられた贅沢な一品だ。黒っぽいそばに慣れている大阪人の中には「これ、ホンマにそばなん?」「うどん、頼んでないで!」と言うお客もいるそうだが、キリッとした関東風のそばつゆに浸してツルッと一口手繰ると、そばの香りがふわっと口に広がり、れっきとしたそばであることが分かる。喉越しもよく清冽で、通天閣の西上雅章社長をはじめ、近隣の人々に愛されているというのも納得がいく。

界隈には"大阪のソウルフード"と誉れ高い串カツ屋が軒を連ね、新店舗も登場。以前にも増して、観光客で賑わうようになった。しかし同店は、周囲の変化や流行に揺らぐことなく、昔ながらの店で、代々受け継いできたそばを粛々と打ち続ける。その変わらぬ姿勢と店から醸し出される風情は、むしろ新鮮。『総本家 更科』は、いつの時代も潔く、粋な存在なのだ。

総本家 更科
大阪浪速区恵美須東1-17-10
電話番号: 06-6643-1256
営業時間: 11:00~20:30 定休日: 金曜日

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