温故知新 大大阪時代を歩く 第5回 難波・南海ビルヂング/大阪髙島屋

ミナミの顔・南海ビルヂング

1932年、髙島屋南海店が入居するターミナルデパートビルディングとして誕生

誕生から80年余りの年月を経た今もなお、建築当初の姿を留める南海ビルヂング。急速に変わりゆく都心にありながら、変わらぬ風貌で「ミナミの顔」であり続ける古老は、誕生から現代に至るまで難波地区発展の核としての役割を担ってきた。
今も昔もミナミのシンボルであり続ける、南海ビルヂングの歴史を辿る。

1932年、髙島屋南海店が入居するターミナルデパートビルディングとして誕生

威風堂々とそびえる、大大阪の心臓部。

竣工時より85年間、時を刻み続ける

南海沿線案内パンフレット表紙 ※橋爪紳也コレクション

 イチョウ並木とハイブランドショップが立ち並ぶ御堂筋を南へ下り、道頓堀川を越えて、さらに難波方面へと進む。と突然、「御堂筋の行き止まり」を告げるかのように、目前に壮麗なクラシックビルが忽然と姿を現した。南海電気鉄道(以下南海電鉄)なんば駅に併設されたターミナルビル、南海ビル(旧称南海ビルヂング)である。
 大大阪時代の1932年(昭和7)に竣工し、世間の耳目を集めた優美かつ威風堂々たるその姿は、今以って健在。
2010年(平成22)7月23日、大阪市都市景観資源に認定登録。2011年(平成23)1月26日には、その歴史的重要性により、国の登録有形文化財に指定された。
御堂筋の突き当りに立地するため、御堂筋を南下して来た人々にとっては御堂筋南端を意味するが、大阪南郊からやって来る人々にとっては、〝キタ?へ向けられた巨大なファサードとして機能する大ターミナルビル。日々、ここに多くの人々が飲み込まれては吐き出され、大阪市全域へと散らばっていく。御堂筋を大動脈とするならば、南海ビルは、いわばそこに血脈を送り出す心臓部。その役割は、大大阪時代から21世紀の現代に至るまで変わることはない。

利用者の増加により、駅舎の新築が急務に。

南海電車発行の沿線の行楽地を紹介する栞 ※橋爪紳也コレクション

初詣、温泉の案内
※橋爪紳也コレクション

「( 旧称)南海ビルヂングは四代目難波駅舎として建てられましたが、建築計画の背景には、当時の南海鉄道の路線の延長と、大大阪の発展があります」と南海電鉄ビル事業部主任、古川貴裕氏は語る。
当時、既に大阪南部に路線を巡らせていた南海鉄道は、難波―大和川間を結んだ阪堺鉄道(1885年開通)を前身としている。阪堺鉄道はその後、順調に路線の延伸を進め、難波―堺間を全線開通。大阪市と大阪南郊間を結ぶ重要な交通手段となった。一方、堺―和歌山間に紀泉鉄道の敷設計画が浮上し、紀阪鉄道も発足。両社は合併して1895年(明治28)に南海鉄道となり、堺―泉佐野間が開通した。
1898年(明治31)、南海鉄道は阪堺鉄道の事業を譲り受け、難波―和歌山市間を全通。1922年(大正11)には、現在の高野線である高野大師鉄道と大阪高野鉄道を合併し、その後、岸ノ里駅における南海本線と高野線の連絡工事が竣工すると難波駅まで直通となり、次いで汐見橋―高野下間も全通した。さらに、1926年(大正15)本線の天下茶屋―粉浜間を複々線として、特急列車を新設。それまで難波―和歌山市間を1時間30分で運行していたところを、1時間15分にスピードアップした。また、浪速電車軌道や阪堺電気軌道と合併して上町線、阪堺線、平野線として大阪南部を縦横に結び、現在の南海路線の形成へと至ったのである。

「南海髙島屋全館開業」宣伝用新聞『ラッキーニュース』(1932年) ※橋爪紳也コレクション

この頃難波駅は、単に停車場としてのみ利用されていたが、第一次大戦(1914?1918年)以降、大阪市の都心部はビジネス街、周辺部は住宅区域とする色分けが明確になり、周辺部の住民が年々増加。交通の便の向上により、仕事や買い物などで都心部へ出かける人も増えていった。さらに大正末期、ミナミの繁華街にカフェーやバーが林立し始めたことに伴い、娯楽を求めて難波駅を利用する人々も増え、南海の終電車はカフェーやバーの女給たちで賑わったという。
南海鉄道の輸送力の増強、大阪市と郊外の開発、そしてミナミの発展。これらの要因が重なって三代目難波駅舎は狭隘を告げ、結果、四代目駅舎「南海ビルヂング」の建設計画が持ち上がることになる。
折しもこの頃は、大阪市の近代的都市づくりが進められ、在阪の私鉄各社のターミナルビルが相次いで建設された時期でもある。大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)は1926年(大正15)8月、上本町に8階建、総延面積約1万2000㎡の大軌ビルを建設。阪神急行電鉄(現阪急電鉄)は1929年(昭和4)3月、御堂筋の北正面に地上8階、地下2階のビルを建設し、売場面積約1万500㎡の阪急百貨店を開業した。さらに1928年(昭和3)には、御堂筋および、梅田―難波間を結ぶ地下鉄御堂筋線の建設計画をはじめ、運河、下水道、公園、墓地など、あらゆる施設を盛り込んだ第二次大阪都市計画が策定された。
こうしたさまざまな動きに後押しされ、南海鉄道は大大阪の南の玄関口にふわさしいターミナルビル建設を決定した。それは、御堂筋の拡幅に合わせてミナミの発展をめざす大プロジェクトだった。
御堂筋南端にミナミの顔、誕生。

南海ビルヂングの設計監督はすべて工学士・久野節(くのみさお)氏が、主体工事は大林組が担当。付帯工事も一流の専門業者が請け負い、工事は順調に進捗した。そして、着工から約3年の歳月を経た1932年(昭和7)7月9日、ついに、地下2階、地上7階、間口約170m、延床面積約4万3000㎡の一大ターミナルビル、南海ビルヂングが落成した。
1階中央部は連絡の利便性と乗降客の増加を考慮して壮大な駅ホールを新設し、地下鉄の駅に直面するよう設計。東側には髙島屋を誘致し、西側は南海鉄道のオフィスと一般の貸室とした。その多彩な役割を担う建物の顔である長大な壁面には、16本のコリント式壁柱とリズミカルな連続アーチで囲った3連窓のルネサンス・スタイルを採用。さらに、表側外壁全面には国産テラコッタを張り詰め、幅広い御堂筋の終着点にふさわしい重厚な外観に仕上げた。
「都心とはいえ、この頃、ビル周辺は木造の建物ばかりで、高い建物といえば御堂筋沿いの瓦斯ビルさんくらい。まさに〝そびえ立つ?といった印象だったと思います」と古川氏。南海ビルヂングは誕生とともにミナミのシンボルとなり、戎橋筋、南海通り等の繁華街は、同ビルを中心に放射状に伸び、周辺地域の発展の起爆剤となった。また、難波駅を起点とする交通の発達は大大阪の南方への拡大を促し、田園は市街地へ。南海ビルヂングは大大阪だけでなく、近郊発展の根源地を象徴する存在にもなったのである。

ターミナル百貨店、髙島屋がオープン。

髙島屋南海店中央入口ファサード(当時)

南海ビルヂングとともにミナミの顔として親しまれているのが、同ビル竣工当初から入店している髙島屋である。京都で呉服商として創業した髙島屋は、1922年(大正11)、当時大阪のメインストリートだった堺筋長堀橋に長堀店を開店し、本格的な百貨店経営に乗り出した。
「この頃日本は、大恐慌の煽りを受けていましたが、多彩な企画と充実した内容の展覧会、斬新な陳列装飾などで話題を呼びました。また、1927年(昭和2)に下足預かりを廃止し、靴や草履を履いたまま自由に出入りできるようにするなど、百貨店大衆化の先駆けとなったのです」と髙島屋広報・IR室の桑原俊尚氏は言う。しかし、御堂筋計画が具体化すると、大阪の中心はから御堂筋へと移っていった。時を同じくして髙島屋幹部は、難波駅ターミナルの南海ビルヂング建設計画と、ビルの大部分に百貨店が入店するという情報を得る。難波駅は、北の梅田に匹敵する大阪の南の拠点で、1日十数万人の乗降客がある。日々、多くの人々が行き交う場所に7階建の大百貨店がオープンすると、髙島屋長堀店が大打撃を受けることは必至だ。
この情報を入手した時は既に、南海鉄道と同業他社との間に賃貸契約はまとまりかけていた。しかし、髙島屋幹部は熱意を伝え続け、南海ビルヂングとの契約を取り付けることに成功。1932年(昭和7)7月15日、髙島屋南海店は全館オープンにこぎつけたのであった。

髙島屋内にオープンした「名物食堂」街

大衆の心をつかんだ斬新な仕掛けとサービス

髙島屋南海店は、ターミナル百貨店としては関西随一の売り場面積を誇り、立派なホールやサロン( 食堂・宴会場)、写真スタジオ、美容室も完備した。また、他の百貨店にはなかった冷暖房装置も導入。当時としては最先端の空調設備はお客を喜ばせ、「今年の避暑はなんばの髙島屋で」と連日、大いに賑わった。
また、百貨店としては初めて結婚式場を設け、化粧から挙式、記念撮影、披露宴までを一括して一ヶ所で行える諸設備をそろえ、浴室も設置。そのサービスと設備は「祝儀いらずで、気軽に便利に使える」と庶民の注目を集め、申し込みが殺到した。

屋上には噴水付の庭園があった

南海電鉄難波開発部課長補佐・川畑氏(左)とビル事業部主任・古川氏(右)

さらに、3階には「名物食堂」なるものを増設。有名店6店が町中の通りさながらの店構えで出店するというユニークな売り場づくりも奏功し、食通たちがこぞって利用したという。また、これまで着物姿で不統一だった女子社員の服装を、全員ワンピースにレースのついたモダンなデザインの制服に新調したことも話題をさらい、後の百貨店女子社員の風俗にも大きな影響をもたらした。
枠にとらわれない自由な発想で、明るい話題を提供し続けた髙島屋。交通の便と南海ビルヂングという大阪のシンボルを味方につけて順調に集客を伸ばし、ターミナルデパートとしての役割を果たすとともに、大阪ミナミの発展の一翼を担ったのである。
そしてオープンから約3 年後の1935年(昭和10)10月30日、待望の難波―梅田間市電地下鉄開通。大阪の南北両玄関の移動はわずか8分に短縮され、スピード時代の幕が開けた。同時に、南海ビルヂング地階には新しく繁華街が生まれ、通勤客や買い物客でおおいに賑わった。

変わりゆく難波で維持される大大阪の威容

南海会館パンフレット見開き(1957年) ※橋爪紳也コレクション

時の流れの中で、南海ビルヂングはいつしか「南海ビル」と呼ばれるようになり、難波界隈も南海電鉄主導で、発展を遂げることとなる。
1970年には(昭和45 )には髙島屋の協力のもと、なんば駅舎を南海ビル2階に移設。さらに1980年代にはなんば駅舎を同ビル南側へ移動し、ビル内には髙島屋のみが残ることとなった。同時に南海電鉄は、なんば駅舎下にファッションストアを中心とするショッピングセンター「なんばCITY」がオープン。1日約40万人が乗り降りする駅施設と魅力あるショッピングスペースを有機的に結び付け、大阪ミナミの新しい街づくりの中心地として存在感を高めることに成功したのである。

髙島屋広報・IR室 広報担当課長の桑原氏

さらに1990年(平成2)には、関西国際空港開港を機に、なんば駅周辺の地域開発構想の一環として建設された超高層ホテル「南海サウスタワーホテル大阪」を開業。2003年(平成15)には、大阪球場跡地に大型ショッピングセンター「なんばパークス」をオープンし、2009年(平成21 )には、なんばCITYにあったロケット広場を関西国際空港と直結する大阪の玄関口にふさわしい空間にすべく、ウェルカムロビー「なんばガレリア」として整備するなど、難波地区の都市機能の強化に取り組んできた。
大がかりな開発を行う一方で、南海ビルのダイナミックかつ壮麗な姿はかたくなに守られてきた。「このビルは大大阪の象徴的建築物で、大阪ミナミの顔。古いから新しく建て替えるのではなく、再生しながら保存したいという思いがあったのです」と古川氏。その思いは今も変わらない。現在、南海電鉄は南海ビルの外観は保存しつつ、「南海ターミナルビル」等再生計画として、周辺開発プロジェクトを続行中だ。

多くの人で賑わう南海ビル前

「2018年(平成30)には、南海ビル南隣りに、同ビルと接続する『(仮称)新南海会館ビル』が竣工します。関空直結の立地を活かしたオフィス機能を強化するとともに、利便性を活かした多目的ホール等を設置するなど、新たな都市機能を備えた複合ビルにする予定です。このビルが完成すれば、難波エリアのさらなる活性化を牽引できると考えています」と難波開発部の川畑雅史氏は期待を込める。

髙島屋広報・IR室 広報担当課長の桑原氏

「難波エリアに外国人観光客が増えつつある今、南海ビルと新たに生まれる周辺施設は、観光都市にふさわしい存在になると思います。南海電鉄はこれまで、関空と難波を結ぶ空港線を開通させるなど、国際ターミナルビルとしての環境を整えてきました。今、進めている南海会館ビル建替計画は、国際都市を見据えてきたなんば再開発の集大成のプロジェクトです」と古川氏。
かつて、大大阪の南の玄関口として、庶民のために開かれた南海ビルヂング。今は周辺施設も巻き込み、海外から訪れる人々を迎える日本の玄関口としての役割を担っている。

 南海ビルディングは、御堂筋の南端を占める「大大阪時代」を代表するランドマークのひとつである。東西に長く、壷飾を冠に戴くコリント式オーダーの半柱を幾本も並べて、柱上をアーチで繋ぐ、新古典様式の華やかな外観が見どころである。

1 ミナミに彩りを添える

 南海ビルディングの設計者は、泉州にゆかりのある久野節。岸和田藩士の家系であるという。旧制堺中学校から東京帝国大学建築学科を卒業、千葉県技師を経て鉄道省に転じ、初代の建築課長となる。昭和2年に退官、自身の事務所を構えてからも、鉄道省嘱託として各地の駅舎や関連施設のデザインを担当する。ファサードの構成に新趣向を示す南海ビルディングは、わが国における鉄道建築の第一人者として活躍した久野の代表作である。
また南海ビルディングは、環境演出など技術面でも、おおいに工夫が凝らされた。電光文字のニュースを流す「スカイサイン」、十五秒周期で赤・黄・緑に変色する照明器具「ムービー・カラーライト」など、電気を用いた最新の演出装置が設備された。電鉄事業者が建設したビルであり、また盛り場に位置するという事情もあって、ミナミの夜景に彩りを添える斬新な演出が施されたのだろう。

2 南大阪的な盛り場気分

 南海ビルディングは、昭和5年に第1期、昭和7年に第2期を完工させている。当初から高島屋が入居、「東洋最大規模の百貨店」として脚光をあびた。均一価格の商品を並べる「高島屋十銭ストア」、直営結婚式場、東洋一を自称した大食堂など、ユニークな店舗構成も評判をとる。全館冷暖房の設備を他店に先駆けて導入した点も話題となった。 雑誌『浪華タイムス』(昭和11年3月号)の特集記事「百貨店巡礼記」では、他のデパートと比較したうえで、「従来のデパート経営方針から一歩脱した萬艦色的な、華美な、スピードアップな、南大阪的な、盛り場気分な、そうした特徴を兼備したモダニズムを惜しみなく発揮し、多角的乃至純明朗気分横溢せる平面主義的経営を行なっている」と評価している。
来客数は、梅田の阪急百貨店よりも多く、おおいに賑わっていた。南海難波駅で乗降する「あわただしい気分の顧客」と、心斎橋筋商店街から流れて来る「散策気分の顧客」の双方を受け入れている点に特徴がある。その様子を記者は「南大阪的」な「盛り場気分」が漂うと評価したわけだ。

3 郊外電車とデパートが握手

 高島屋南海店が全館開業した昭和7年、「ラッキーニュース」と題する宣伝用の新聞が配布された。私の手もとにその実物がある。
この広告媒体では、見開きページの全体を使って、各フロアの売場を紹介しつつ、開店日である7月15日から始まる記念大売り出しを告知している。紙面では各階の陳列風景に加えて、市街地を見晴らしたパノラマ景の写真を掲載、屋上庭園からは「大大阪の展望」ができると訴える。
表紙には、南海ビルディングの偉容を空撮で紹介する。黒い甍の波が広がるミナミの繁華街に出現した白く浮かぶ姿を、ここでは「陸上の巨船」と表現している。文中では、このビルを東京の丸ノ内ビルに次ぐ「日本第二のデッカイ建物」、また「理想の立体的お買物街」などと強調している。
空撮写真の横に、高島屋との縁が深い与謝野寛(鉄幹)と晶子が「高島屋全館開店を祝ふ歌」を寄せている。鉄幹は「物のみを満すにあらず此處にあり新しき世の光る愛と美」とその美観を讃え、晶子は「とゝのひぬ大阪城に天守成り 南難波に高島屋成り」と、市民の寄付で復興された大阪城天守閣と比較している。
「ラッキーニュース」には、大阪市長であった関一と白川市会議長が、完成したばかりの高島屋の屋上で、大阪の現状と将来について意見を交換する様子を報じるルポも掲載されている。「和やかな都市計画漫談」という小見出しが面白い。
「空には煙が多い、地上には緑が少ない、これはわが大阪市のためにもっとも考慮せねばなりませぬネ」「同感、それに街の美しさといふことも大切です」「それには家並びを統一することが一番いいのですが。…」「調和的に統一しているつまり調和美ですなア」
このように述べたあと関市長は、工事の途上であった御堂筋にふれて、道路に面した地権者は周囲に調和するように家屋を建設、「ほかでは見られない御堂筋独特の雰囲気」を創ってもらいたいと強調する。
また白川市会議長は、難波のこの地で郊外電車とデパートが握手していることは、「大大阪将来のため非常に結構な配置だと思う」と述べ、関も賛同している。傍らで、ふたりのやりとりを聞いていた高島屋の細原取締役と川勝支配人は、ここで大いに自信ありげにうなずいた、と記事にある。
市街地が拡張した「大大阪」の時代、南大阪の郊外に展開された新興の住宅地と、都心の業務築や商業集積とを繋ぐ役割を、この新しい複合的なターミナルビルが担うことが期待されていたことが判る。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
大学院経済学研究科 教授

この店、この一品。
[ 第5回 ]浪速割烹 㐂川  「其々味 割鮮 㐂川流」

始末家の大阪人も唸らせる、
割烹料理の「メインディッシュ」。

月の法善寺横丁に名店は数々あれど、浪速割烹と言えばこの店を置いて他にない。創業1965年(昭和40年)、大阪を代表する高級割烹の老舗・『浪速割烹 㐂川』である。初代が初め笠屋町に開いた雑炊を中心とする店、その後周防町に出したカウンター懐石の二店をまとめ、1970年代に法善寺の現在地に移転した。

高級フレンチから、割烹の世界へ。

半世紀を超える歴史の中で培われて来た「伝統と創作」という信念を受け継ぐのは、現在の店主・創業家二代目の上野修氏。高校を卒業して19歳で一度は店に入るものの、一念発起。小説「華麗なる一族」や2016年伊勢志摩サミットの舞台ともなったあの名門・志摩観光ホテルの高橋忠之総料理長(当時)の下で4年半フランス料理の真髄を学び、上本町都ホテル「ラ・メール」への出向を経て、1985年(昭和60年)に㐂川に戻る。以来、日本料理一筋に32年。高級フレンチから高級割烹の世界への「華麗なる」転身は、しかし、当初「衝撃」の連続であったと言う。

「まず、厨房仕事とカウンター仕事の差ですね。目の前にお客様のいるプレッシャーには慣れてませんでしたし、両刃の包丁から片刃の包丁への違いも大きかったですね。」 時はバブルへと向かう80年代中期。フランス料理で学んだ濃い目の味付けを活かした「これフレンチやろ?と言われそうな」料理を出す支店を一時出したりもしたが、その時は美味しくとも後を引く濃さに「これでいいのか」。そこから和食本来の旨味を作り出すコクの探究へ。それが野菜の旨味、「素晴らしい発酵食品である」味噌が醸すコクと味わいであるとやがて行き着く。「それから自分なりの料理を徐々に創り上げていったのかな」と、試行錯誤の当時を上野氏は謙虚に振り返る。

其々のネタの旨味を最高に引き出す

取材当日、上野氏自らが包丁を振るい、八種其々の刺身の美味しさを引き出す特製のソースと共に供された「其々味 割鮮」は、漆黒の美しい塗りの盆に鮮やかに盛り付けられて出て来た。刺身を注文する客の9割が選ぶという看板料理。この一皿へのこだわりは実はフレンチと関係がある、と上野氏は明かす。「フランス料理のシェフはソース作りに命を懸けています。日本料理のメインディッシュである刺身が醤油だけでいいのか、と思ったんですよ。」
その言葉通り、一つ一つのソースの仕込みは半端ではない。この日は、①「烏賊」を細切りにして鰹の酒盗汁に漬けたもの、②ごま油と塩で食す三陸産の「イシカゲ貝」、③湯引きし海老味噌に酢を加えたソースで味わう「車海老」、④バルサミコ酢と醤油をゼラチンで固め拍子切りした具を挟んだ「鮪」、⑤皮だけ焙り焼きにした「金目鯛の焼霜」、⑥?川名物「秋鱧」の生雲丹乗せ、⑦バジル入り酢味噌で味わう「明石蛸の湯洗い」、そして最後は、⑧シンプルに酢橘と塩で味わう「明石鯛」。まさに割烹の「メインディッシュ」と呼べる、食通も唸る見事な日本料理である。

旅の記憶に残る、味ともてなしを。

「公家」の町・京都で生まれた上品な懐石料理とは違い、「商人」の町・大阪で生まれた割烹料理は、真昆布でしっかりと取った出汁で魚の頭から中骨まで無駄を出さずに使い尽くし、味わい尽くす。「始末家の大阪人は鯛を好む」と言われる所以は、この合理性にある。割烹料理は万人向けなのであ
る。
かつて地方から大阪に商売で出て来た人々をもてなした割烹料理は、今では海外から大阪にやって来る新たな客層をも引き付け、魅了する。
「日本へ来て、美味しい店に出会った。またいつかあの店を訪ねてみたい。旅の記憶に残る、そんな貴重なひとときをお届け出来たらと思います。」インタビューの最後、晴れやかな笑顔で上野氏はそう語った。

浪速割烹 㐂川

大阪市中央区道頓堀一丁目七番七号
電話 06-6211-4736/3030
定休日:月曜
昼:11:30~14:00(ラストオーダー)
夜:17:00~21:30(ラストオーダー)

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