温故知新 大大阪時代を歩く 第6回 大阪城天守閣/大阪府庁舎本館/旧大阪放送会館

大阪城天守閣

大阪のシンボル、大阪城の天守閣がそびえる大阪城公園。大阪城と向き合うように主要公共施設が建ち並ぶ大手前エリア。
今も昔も大阪の中心であり続けるこの地には、大大阪時代の名残が感じられる。大大阪時代の足跡を辿る旅も今号が最終回。大大阪の中枢を担った地の歴史を紐解きながら、未来の大阪について考える。

戦国時代から江戸、明治へ、刻まれた動乱の歴史。

 スマートフォンで記念撮影をする外国人観光客たち、制服姿の修学旅行生、遠足にやってきた愛らしい幼稚園児など、たくさんの人で賑わう秋晴れの大阪城公園。彼らのお目当ては、天に向かってそびえる大阪城天守閣だ。白亜の壁に映える緑青色の屋根、上層部には雄々しい虎のレリーフが施され、近づくほどその壮大さに圧倒される。ところで、この美しい天守閣、昭和6年に建てられた「近代建築」であることを知っている人は、果たしてどれくらいいるだろうか。
 大坂城は1583年(天正11)、豊臣秀吉が天下人の居城にふさわしい大城郭をめざして築造を開始。しかし秀吉没後、政権は徳川家に移り、1615年(元和元)の大坂夏の陣で炎上する。1620年に始まる徳川幕府の再築工事によって二代目天守が1626年(寛永3)に完成したが、1665年(寛文5)に落雷のため焼失。それ以後、大坂城は天守閣のない時代が長く続き、明治以降は陸軍用地として使われた。

大阪人のルーツを、生きる誇りを取り戻す。

 三代目天守閣の復興計画が打ち上がったのは1928年(昭和3)のこと。人口で当時の東京市を上回り、名実共に「大大阪時代」と呼ばれた時代であった。それに先立つ1925年(大正14)に開かれた「大大阪記念博覧会」では、天守台に建てられた展示施設「豊公館」で秀吉ゆかりの美術工芸品や歴史資料を展示したところ、一ヵ月半の会期中に約70万人が押し寄せていた。こうした実績も意識したのだろう、大阪市長の関一氏は昭和天皇即位の御大礼記念事業として、大阪城天守閣の復興と大阪城の記念公園化を発案する。ヨーロッパの都市計画に造詣の深かった関市長は、市民が憩い、地元に対する誇りを体感できる場の必要性を感じていたのだ。
 「急激な近代化の中、大阪の人々はアイデンティティを渇望していたのだと思います。置き忘れてきた日本らしさや郷土大阪を愛する心、この地に生きる誇りを抱くための仕掛けが必要だった。関市長はそう強く考えたのでしょう」と語るのは、大阪城天守閣 研究副主幹、宮本裕次氏。学芸員として長年大阪城天守閣を支えてきた。
 大阪城天守閣の復興を進めるにあたり、関市長は各区に窓口を設け一般市民から広く寄付を募りムーブメントを起こす。申し込みが殺到し、大企業からの大口寄付のおかげもあって、およそ半年で目標額の150万円に到達し、1930年(昭和5)着工に漕ぎつける。小さな子供でもお小遣いで貢献できる、公費を使わず市民一人一人がお金を出すことで、地域に根ざした復興事業となった。

 
太閤秀吉の天守閣を近代建築で復興する。

秋空を背景に秀麗な外観を見せる大阪城天守閣

 大阪城天守閣の復興には、構想段階から二つの命題が課せられていた。一つは、徳川時代ではなく、大阪人にとって愛着の深い太閤秀吉が建てた豊臣時代の天守閣を復興すること。構造や意匠の検討は大阪市土木局建築課が担当し、また京都帝国大学の天沼俊一や武田五一といった日本建築界の第一人者が諮問機関の委員に就任したが、秀吉時代の図面などが残っているはずもなく、頼りになるのは現在大阪城天守閣が所蔵し重要文化財となっている『大坂夏の陣図屏風』や文献史料のみ。そのため、桃山時代の特徴をできる限り再現することで史実に近づけたいと考えた建築家嘱託の古川重春は、各地の城郭を訪ね、さらに文献史料などの検討を重ねた上で設計図を作成した。こうした作業は実証的な城郭研究の先駆けであり、城郭建築の文化財としての価値を引き上げることに貢献した。
 もう一つの命題は、記念碑的存在として、永久に残る建造物にすることであった。当時の日本は関東大震災の喪失感にいまだ包まれており、建造物には地震や火災に強い堅牢さが何よりも要求された。古典建築でありながら永久建築であるという、相反する二つの命題を両立させるために技術者たちは悩み、熱く議論を闘わせたという。
 三代目大阪城天守閣は着工翌年の1931年(昭和6)11月7日に完成する。鉄骨鉄筋コンクリート造で地上から55メートル、5層8階からなる当時の英知が集結した近代建築の誕生であった。ちなみにこの5層8階についてはこんな話がある。『大坂夏の陣図屏風』に描かれた天守は5層だが、8階だったという有力な文献もあり、内部構造をどうするかが問題となった。1階部分は石垣(天守台)の内側だったとしても、「史実通り」を貫くためには残り7階分を5層の中に納める必要がある。そこで、5、6階部分を吹き抜けにし、5層8階という構造を実現した。

隆々たる姿の金の鯱

大阪城天守閣研究副主幹 宮本裕次氏

 こうしたエピソードからも設計者の意地と心意気が伝わってくると宮本氏は言う。「中層階を吹き抜けにするのは当時相当珍しかったと思います。技術者も職人も、それぞれが使命感と熱意をもってこの事業に取り組んだことが窺えます」。この頃の大阪は御堂筋や地下鉄御堂筋線が整備され、市民の間や経済界では『大阪が生まれ変わる』という予感と期待にあふれていた。天守閣復興でも、そうした大大阪時代の熱気や情熱が後押ししていたのかもしれない。
 宮本氏に案内していただき、実際に天守閣に上ってみた。天守閣は博物館施設であり、数々の貴重な歴史資料が保管・展示されている。中央には1階から8階まで二重らせん式の階段が設けられており、上る人と下る人がぶつからないよう工夫されている。これは、当時から展示施設をめざしたことを示す画期的な設計だった。その階段の周囲には、4、5メートル間隔で太い柱が建つ。木造建築の知恵をそのまま鉄骨に置き換えていることが伺える。  

大阪城天守閣研究副主幹 宮本裕次氏

 

 
その雄姿は戦後の大阪に生きる勇気をもたらした。

大坂夏の陣図屏風の解説に見入る来館者

 その後、第二次世界大戦が起こり、大阪城一帯は大戦末期の空襲で大きな損害をこうむったが、大阪城天守閣は幸運にも燃えなかった。宮本氏はその意味についてこう述べる。「大阪は焼け野原となりましたが、焼け出された人々や復員兵たちにとって、変わり果てた街の向こうに見える天守閣がどれだけ励みになったことでしょう。『大阪城が見える、ああ、がんばらなあかんな』と、人々は勇気を奮い立たせ、大阪の戦後復興に力を尽くしたのです。そういう意味でも永久建築をめざした大阪城天守閣の復興は価値のある事業だったと思います」

上りと下りが分かれた二重らせん式階段

大坂夏の陣図屏風の解説に見入る来館者

 1995年(平成7)から97年にかけて天守閣は「平成の大改修」が行われ、さらに進化を遂げている。ここ数年はアジアを中心とする外国からの観光客が多く訪れるようになり、昨年度の入館者数はこれまでの年度最多記録を更新する255万人。今年9月には86年前の開館からの入館者が累計1億人に達した。
 今年と来年は、幕末から明治への転換期から150年の節目にあたる。大阪城は、最後の将軍徳川慶喜が活躍した舞台でもあった。「ここは秀吉の時代から、さまざまな歴史が積み重なっている場所。どんなに高いビルが建っても大阪城の重みや厚みは変わらず、これからも大阪市民の心のより所であり続けるでしょう。その価値を掘り起し、発信していくことが、私たちの使命だと思っています」と宮本氏。大大阪時代に大阪人の誇りをかけて建設された三代目大阪城天守閣。これからも、大阪人のアイデンティティの象徴であり続けるに違いない。  

上りと下りが分かれた二重らせん式階段

 

 
モダニズム建築の先駆け、大阪府庁本館へ。

大阪府庁本館正庁の間

大阪城を後にして、大阪城公園の西に面する上町筋へと下る。ここに、大大阪時代の貴重な建築がある。1926年(大正15)に建てられた大阪府庁本館である。現在の本館は府庁舎としては三代目で、1874年(明治7)に建てられた江之子島の二代目庁舎が手狭になったことから、陸軍から払い下げを受けたこの地に建設された。

庁舎整備課の石塚なぎさ氏

 設計はコンペにより平林金吾と岡本馨という若手コンビの設計案が採用される。それまでの都道府県庁舎は中央に塔やドームを戴く西洋の古典様式など、行政府としての威厳を強調する荘厳なデザインが主だった。そうした中で、若い二人の感性は20世紀初頭のヨーロッパで広まっていた「セセッション」と呼ばれる新しい潮流を取り入れた。「当時の庁舎としてはシンプルな外観でしたが、かえってそれが新鮮だったのでしょう。鉄筋コンクリート構造を取り入れたモダニズム建築の先駆けとなりました」と、大阪府総務部庁舎室庁舎整備課の石塚なぎさ氏は語る。
 

正庁の間の窓からは大阪城が見える

 正面玄関には、紫雲石による彫刻など装飾的な意匠が施され、それ以外は一切の装飾を排し、直線美の映える幾何学的な外観に。そのシンプルさとは対照的に、車寄せから建物の中へ一歩入ると、壮麗な空気へと一変する。要人たちを出迎えてきた中央のホールは3層吹き抜けで、正面に大階段を配したスケール感のある荘厳な空間。薄桃色のイタリア産大理石がふんだんに用いられ、映画やドラマのロケ地としても度々使われてきた。
 2、3階には二層吹き抜けの議場が当時のまま残されており、都道府県庁舎の中では現役最古の議場となっている。「戦時中は襲撃を防ぐために屋上にコンクリートの耐弾層を設置したり、府庁舎を上からネットをかけて目隠ししよう、という案も出たそうです。府庁舎はそれだけ重要な建物だったのでしょう」と石塚氏は言う。

 

 
大正ロマンの美しさを見事に復元した正庁の間。

正面玄関から入ると3層吹き抜けの壮麗な中央ホールが出迎える

大大阪時代の豊かな感性を伺い知ることができるのは、5、6階に設けられた正庁の間である。年末年始の行事や人事発令などを執り行う特別な部屋だったが、庁舎が手狭になったため数年前まで執務室として使われていた。内装の劣化が進んでいたが、2011年(平成23)の改修工事によって大大阪の栄華を偲ぶ空間が見事に復元されている。
 「天井のステンドグラスは国内最大級の大きさを誇ります。当時のガラスをそのまま使い、職人が手作業で磨いて修復しました」と石塚氏。壁に施された大正時代のレリーフや漆喰の白も忠実に再現。大正ロマンを感じさせるシャンデリアや美しい寄木貼りの床も当時の部材を使って復元されている。琥珀色に輝く床板に、この場所で重ねられてきた歴史の重みを感じずにはいられない。
 大阪府は正庁の間を平成24年から水・金曜日に一般公開しており、カメラを手にした建築ファンが訪れる。
 「正庁の間や中央吹抜ホールに入った瞬間、その美しさや空間に皆さん驚かれます。その様子を見ていると、ああこの建物を残して良かったなと改めて思いますね」。戦後復興期における大阪府政の中枢を担った三代目大阪府庁本館。全国でもっとも歴史の古い現役庁舎は現代の技術により免震化され、当時の栄華を静かに語り伝えている。

大大阪の情報拠点だった、大阪放送会館。

大阪府庁舎本館の車寄せから南へ、大阪府警本部を越えると大阪放送会館が突如として現れる。1350年余りの歴史を刻む難波宮跡に大阪市の大阪歴史博物館と共同で建設された複合施設で、関西の多様な文化・芸能を発信する「NHK大阪ホール」や公開放送や放送体験が楽しめる「BKプラザ」を有する関西の情報発信拠点である。
 そこから馬場町の交差点を挟んだ向かい側の角に、かつて旧大阪放送会館があった。2001年(平成13)に現在の大阪放送会館が完成するまで、60年以上に渡り、関西の情報拠点として激動の時代をくぐり抜けた大大阪を代表する近代建築である。設計は東京国立博物館を設計したことで知られる渡辺仁設計事務所の渡辺仁、構造設計は東京タワーや通天閣を設計した内藤多仲。施工は大林組が担当した。建設にあたり、何よりもこだわったのがスタジオの音響効果と外部の騒音を完全に遮断することだった。特に防音は建物の北側と西側に路面電車が走っていたためだ。渡辺は騒音を遮断するべく、電車道とスタジオの間に事務室棟を挟む斬新なデザインを設計。俯瞰するとまるで鳥が翼を広げたような形をしていた。

 
市民の声を受けとめる「耳」のような外観。

旧大阪放送会館絵葉書 ※橋爪紳也コレクション

 「旧大阪放送会館はそれは重厚な建物でレトロな雰囲気でした。廊下は大理石で広いロビーがあり、今思えば貴重な建物で仕事をしていたのですね。当時は仕事に追われて、そんなことを感じる暇もありませんでしたが」と、大阪放送局編成部の伊藤安恵氏は当時を振り返る。スタジオは大小13室あり、中でも1階から3階を吹き抜けにしたラジオ第一スタジオは圧巻のスケールだったという。

大阪放送局第1副調整室(昭和11年頃) ※写真提供:NHK

 建物の外観は垂直線を特徴としたネオゴチック様式、正面は半円形にくぼませながらも威厳のある姿をしており、まるで市民の声を受けとめる耳のようだった。「白堊の殿堂」と呼ばれた本館に移った職員達は、見学に訪れる市民の対応に追われながら「放送局に働く誇り」を覚えたという。こうして旧大阪放送局は大阪の新名所となった。
 しかし、この白堊の殿堂にも戦時体制の影がしのびよる。第二次世界大戦が始まると株式や市場が閉鎖され、商都大阪の光彩は日に日に失われていった。統制の強化で放送は戦時色が濃くなり、大阪放送局も独自の地域番組を制作する余地が狭められていったという。やがて日本は終戦を迎え、時代は戦後から高度成長期へと進んでいく。東海道新幹線の開通や大阪万国博覧会の開催など、旧大阪放送会館は大阪の発展と活気にあふれる街の様子を伝え続けた。
 

大阪城公園内に残る当時のラジオ塔

1995年(平成7)には阪神大震災が発生。三十万人が被災し、十万棟の建物が損壊する甚大な被害となる。そうした中で、大阪放送局はこれまで蓄積してきたノウハウをフル回転させ、被災者に多角的に情報提供を行った。大正時代に誕生した旧大阪放送会館は昭和から平成へと、時代の変遷に揉まれながら激動の時代をくぐり抜けたのだった。

 
歴史あるこの地から大阪の活性化に貢献。
 

今は駐車場となっている旧大阪放送会館跡地

 2001年(平成13)に現在の大阪放送会館が新設され、その役目は新館へと引き継がれた。引き続きこの地で情報を発信していくことの意義について、広報部副部長の藤田浩之氏に伺った。「歴史あるこの地にあって、これからも魅力あふれる大阪や関西の活性化に向けて、より親しまれる多彩で質の高い放送・サービスを展開したいと考えています」。地域の課題、地方自治の動向などを的確にとらえたニュース・番組を提供するほか、大阪や関西の貴重なコンテンツ素材を生かして、スーパーハイビジョンやインターネットなどのサービスもいっそう充実させていくという。さらに、地域の安全・安心の確保を担うべく、大規模災害発生時の災害報道はもちろん、首都直下地震に備え、本部バックアップ機能の運用・実施体制の一層の強化を図っていく。

現在の大阪放送会館と大阪歴史博物館(左)

 ラジオが家庭に普及する前、大阪各地にラジオ塔が建てられた。市民はラジオ塔のそばに集まり、アナウンサーの声や音楽に耳を傾けた。その一つが今も大阪城公園内に残っていると聞き、案内していただいた。大阪城の外堀を背に静かにたたずむラジオ塔の姿に、社会やメディアの変遷を思う。「この下でみんなでラジオを聞いていた時代があった。やがてテレビになり、カラー化、衛星放送、ハイビジョン放送と大きく進化した。その進化の象徴が、旧大阪放送会館だったのではないかと思います」と語る編成部副部長藤井康人氏の言葉が、この取材を締めくくるものとなった。

 

 「大大阪」の時代、人々の視線は世界に向けられた。
 ニューヨーク、ロンドン、シカゴ、ベルリンなどに学びつつ、最新の大都市機能が導入された。木津川尻には国際路線が発着する大阪飛行場を開設、太平洋航路による国際観光客の増加もあり、官民による国際ホテルの整備が具体化する。
 いっぽうで世界を意識するがゆえに、大阪の固有性、歴史や文化を再評価する気運も高まった。

1 興亜観光と大阪の印象

 雑誌『大大阪』昭和14年4月号は「興亜都市観光」の特集を組む。
 海外や外地からの旅行客をいかに受け入れるのか、逆に大阪の人たちは、いかに海外の諸都市を観光するべきか。相互の視点を持ちつつ、「都市観光」が多彩に論じられた。
 「観光大阪の印象」と題する記事が面白い。東京在住の著名人24名に、土産物・旅館ホテル・歌舞演芸・歓楽街・料理および料理店・観光案内・百貨店の各項目について、大阪の評価を求めたアンケート報告である。
 たとえば政治家の芦田均は「観光都市としての大阪は、多数の客に失望を与える」と批判的だ。海外からの旅行客に対しては「日本工業の威力を示す様な場所」、すなわち基幹的な工場を組織的に見せよと希望する。大阪は「観光都市」ではなく、あくまでも「産業都市」であるべきだという主張である。
 対して観光客の目から、街の風情を讃える意見もある。作家の櫻井忠温は、横丁や路地が懐かしいと賞める。俳人の臼田亞浪は、道頓堀・千日前・天王寺はそれぞれに特色があり、宗右衛門町は京都の祇園と同様に「東京には見られない情緒」だとみる。ただ道頓堀や土佐堀川など「異臭あふるるドブ河」は、なんとかして欲しいと辛口である。
 総じて評価が高いのが、食に関する項目である。洋画家の東郷青児は「大阪に行く楽しみの最大のものは料理と酒」と強調、「つる一」「伊勢はん」「アラスカ」などの店名を列記する。作詞家の長田幹彦は「大阪の料理人諸君はとにかく非常に良心的」と分析、さらに「味の濃やかさが天下一品」であり、またその味を楽しむ「大阪人の味覚」を褒める。いっぽう作家の沖野岩三郎は、大鉄百貨店内で食事した際に35銭で腹一杯になった経験を紹介しつつ、味に加えて値段の安さに注目する。
 いずれも今日に通じる大阪の印象記ではないか。

2 「大大阪」の床飾

 昭和6年11月7日、真新しい文化施設である大阪城天守閣が完成する。かつてあった建物を再現したものではなく、限られた資料から擬似的かつ近代的な和風様式が産み出された。「復元天守」ではなく、「復興天守」と呼ばれるゆえんである。
 この画期的なアイデアを誰が思いついたのか。雑誌『大大阪』昭和13年7月号に市立美術館嘱託であった上田令吉の回顧がある。それによれば大正10年頃、市役所のある職員が、外観を「豊公当時の大阪城」に模し、内部を「美術品や古美術品、郷土資料の陳列場」とするミュージアムを建設したら良いと思いついた。豊公の昔をしのぶ教育施設であるとともに、「近代文化に躍動する工業都市」を一望できる展望台を兼ねるアイデアである。
 竣工すれば、大阪の「第一の名所」となる。加えて都市の「装飾物」にもなる。家庭でも床の間に置物を飾るのが常だ。客をもてなしつつ、主人も「優雅なる気分」を味わうことができる。創案者は「大阪を代表する装飾物」があっても贅沢ではないと考えたのだという。
 この提案が、第七代市長となる関一に進言されたらしい。アイデアは昭和3年に進展をみる。即位大礼を記念する大阪城公園の整備計画に、天守復興案が盛り込まれたのだ。
 永久的なモニュメントとし、後世に最高の建物を残すべく、当時の最新の建築工法が採用されることになった。建設費用は市民の寄付を集めてまかなうこととされたが、不況のただなかにあったため、一部に「無用論」もあった。しかし「共同的床飾」を望む市民の想いは強かった。半年ほどのあいだに、総計7万8千件を超える基金が集まった。
 大阪城の復興天守閣は、市民の「都市愛」を喚起する文化的なシンボルであると同時に、来街者の目的地となる複合的な国際観光施設である。歴史的な高層建物を最先端の建設技術を用いて復興、博物館という教育施設と展望台を兼ねた文化観光施設という機能を託す。その発想が新しい。
 当初、託された使命があるがゆえに、今日においても復興天守は、大阪の「共同的床飾」であり続けている。世界的にも前例のない施設を具体化する実行力を、私たちも見習うべきであろう。

橋爪紳也 はしづめしんや
大阪府立大学
大学院経済学研究科 教授
観光産業戦略研究 所長

この店、この一品。
[ 第6回 ]うさみ亭マツバヤ  元祖きつねうどん
 

穏やかな語り口の宇佐美芳宏さん。

戦前は家具問屋、戦後は繊維問屋が軒を連ねた大阪船場の丼池筋。かつて賑わいを見せた商人の町には今、飲食店が建ち並び、買い物客やビジネスマン御用達となっている。そんな移ろう町中にあって、昔と変わらぬ味と佇まいを守っているのが、1893年( 明治26)に創業した「きつねうどん」発祥の店、『うさみ亭マツバヤ』である。
 そもそもきつねうどんは、初代の宇佐美要太郎氏が「寿司にいなりずしがあるのだから、うどんにおあげさんを使っても不思議ではない」と、すうどんに甘辛く炊き上げたおあげさんを添えて出したのがはじまり。「そのうち、お客さんがうどんの中におあげさんを入れて一緒に食べるようになったので、うどんに乗せて出すようになったんです」と、三代目当主の宇佐美芳宏さんは話す。当初「こんこんうどん」と呼ばれた新メニューは、たちまち大ヒット。いつしか「きつねうどん」と親しまれるようになり、大阪のみならず全国でうどんの定番となった。

 

親子三人で代々の暖簾を守る。

おあげさんは3日かけて作る。

 明治の人々の胃袋をつかんだその味は、平成の今も健在。「安くてうまいけど、ややこしいものは使わない」と、初代が選りすぐった素材を使い、元祖の味を守っている。たとえばカツオ節は、室での保存と天日干しを繰り返して1年かけてつくられたものを使い、醤油は麹菌が生きている旨みのあるものだけを取り寄せる。また、調理法も代々受け継がれた行程を踏襲。だしに使うカツオ節は毎朝自ら削り、おあげさんは朝晩火を入れ3日かけて味をしみ込ませるといった具合だ。注文後、ものの数分で供されるファストフードでありながら、その舞台裏では懐石料理さながらの長い時間と手間ひまがかけられているのだ。

注文を受けてから出すまでの時間は短い。

長男の聖司さん(左)、奥さんの洋子さんと。

 うどんの上で湯気立つおあげさんを口に含むと、ジワッとにじみ出る甘辛い味わいに、心がホッと温まる。ユズの香り、うどんのほどよいコシ、そして旨みたっぷりの優しいだしも、なんともいえない品がある。食にウルサイ大阪人に、100年以上にわたって愛されるゆえんである。

 

大阪うどん処
うさみ亭マツバヤ


大阪市中央区南船場3-8-1
電話番号:06-6251-3339
営業時間:月~木曜11:00~19:00LO
     (金・土曜 ~19:30LO)
定休日:日曜・祝日

 

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